大手門平和の鐘大手門平和の鐘(おおてもんへいわのかね)は、本町1丁目の小田原城大手門跡の鐘楼に掛けられている時の鐘(1)小田原市連合寺院団鈴木十郎市長が発起人となって、市民の募金を募って造られ、1953年(昭和28)9月に完成した(1)

沿革

郷土文化館1968によると、貞享3年(1686)に(後期)大久保家が小田原に入場したとき、既に時の鐘があったことが何かの記録にみえる(1)。宝永4年(1707)7月に鐘が破れて悪響となったので、同年12月に改鋳された(1)。鋳造は、江戸日本橋室町1丁目 尼崎屋の鋳物師・南条甚左衛門尉喜教(1)

風土記稿』には、大手口の外にあった浜手門の内側・西側に更鐘(時の鐘)があり、宝永4年(1707)の鋳造だったとある(2)

郷土文化館1968によると、当時の(浜手門内の)鐘楼の位置は幸1丁目214番地で、1896年(明治29)5月に現在地(本町1-5-23)に移された(1)

1923年(大正12)9月1日、関東大震災で転倒し、間もなく再建された(1)

宝永4年(1707)に改鋳された鐘は1942年11月、太平洋戦争中の金属供出で失われた(1)

1953年(昭和28)9月、小田原市連合寺院団が発起し、鈴木十郎市長が発起人となって、募金総額1,057,233円を以て、鐘が新鋳された(1)。鋳造は京都・三和梵鐘製作所、撰文は椎尾弁匡、筆者は高橋竹邨(1)奈良博物館に保管してあった興福寺の鐘を原形として造られた(1)。新しい鐘にも、宝永4年の鐘の銘が写してある(1)

参考資料

  1. 郷土文化館1968:小田原市郷土文化館「20 大手門平和の鐘」『小田原の金石文 (2)』小田原市郷土文化館研究誌No.4、1968、14-16頁
  2. 『風土記稿』早川庄 小田原城 浜手門 更鐘