川崎 長太郎(かわさき ちょうたろう、1901年 - 1985年)は、浜町出身の詩人小説家小田原中学校を中退するが、文学を志望し、福田正夫詩誌『民衆』や、上京して詩誌『赤と黒』などに参加した。徳田秋声宇野浩二の斡旋で私小説を発表し、「余熱」は第2回芥川賞候補となった。1938年に小田原へ戻り、物置小屋での生活を開始。太平洋戦争中に徴用工員として父島に派遣され、戦後に体験作品を発表。1953年-1954年頃「抹香町もの」がブームとなった。1962年に結婚し、市内中里へ移住。5年後に脳出血により後遺障害を負ったが、私小説を書き続けた。

経歴

1901年(明治34)11月26日(2)ないし12月5日(1)に、小田原町万年(浜町)に生まれる(1)(2)。家は代々、魚商を営んでいた(1)(2)町立第一尋常高等小学校を卒業し、小田原中学校へ入学(1)。翌年退学となり(2)、以後は家業の魚屋を手伝うなどしていたが、文学を志望し、福田正夫詩誌『民衆』に参加(1)(2)。その後、小田原へ来往したアナーキスト加藤一夫の影響を受け、20歳のとき上京して詩誌『赤と黒』の出版に携わった(1)

1923年(大正12)に一度帰郷したが再び上京(2)。以降は、徳田秋声宇野浩二のもとに出入りして私小説を書き始めた(1)

1925年(大正14)2月、徳田の推薦により『新小説』2月号に「無題」を発表(1)

その後は私小説作家として独自の道を歩んだ(1)

(1935年)「余熱」が第2回芥川賞の候補となった(2)

1938年(昭和13)、小田原へ戻り、物置小屋に住み、みかん箱を机にし、ロウソクを明かりにして小説を書く生活をしていた(1)。3食を料亭「だるま」で食べ、市内をあちこち歩き回っていた(1)

太平洋戦争末期に海軍の徴用工員として父島に派遣された(2)

戦後、『人間』に発表した「父島」ほか徴用工員としての体験をもとにした作品は、ユニークな戦争文学として評価された(2)

1953年(昭和28)-1954年(昭和29)頃、売春婦との交情を描いた「抹香町」で知られるようになり、「鳳仙花」「伊豆の街道」など「抹香町もの」がブームになった(1)(2)

1962年(昭和37)、60歳のとき、29歳年下の女性と結婚して、市内中里へ移った(1)(2)

推定1967・昭和42年に経度の脳出血で右半身不随となったが、私小説を書き続けた(2)

菊池寛賞神奈川県文化賞芸術選奨文部大臣賞を受賞(2)

1985年(昭和60)11月6日、83歳で死去した(2)

参考資料

  1. 石井富之助「5 川崎長太郎」神奈川県立図書館『神奈川県の歴史 県下の文学編 上』〈神奈川県立図書館シリーズ8〉神奈川県立図書館、1963、81-84頁
  2. 近田茂芳「私小説家・尾崎一雄と川崎長太郎」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、136-137頁

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