光明寺(こうみょうじ)、海向山遍照院は、国府津にある時宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。藤沢・遊行寺2世・真教(元応元年・1319没)が開基。江戸時代には国府津・蓮台寺の末寺だった。(1)
沿革
往古は真言宗の寺院だったが、真教の教化により時宗に改宗した(6)。
江戸幕府開府のとき、檀家の村野氏の要望により敷地の交換をし、西浜から1954年当時の所在地へ寺地を移したと伝わる(6)。
寛永年間(1624-1644)に火災で堂宇などを焼失(6)。14世・阿了順(寛永12年・1635没)のとき再建された(6)。
1881年(明治14)2月に、国府津村の中央にあった光明寺の庫裡(広さ23坪・約76m2)に前川学校 国府津分校が設けられ、下級(初等6級・5級)の児童20余名を教授した(国府津小学校の前身)(6)(7)(9)。
1902年(明治35)9月の小田原大海嘯のときには、光明寺と真楽寺に負傷者の収容所が設置され、応急手当が行われた(8)。
1909年(明治42)、蓮台寺との本末関係を解消し、総本山の直末となった(6)。
1923年(大正12)9月、関東大震災で全壊(5)(6)。
1959年(昭和34)、寺地を現在地に移して再建され、1970年当時に至る(5)。
境内
1970年当時、境内は500坪(約40.7m四方)、建物は本堂42坪(約11.8m四方)、庫裡(5)。
子ノ権現社
『風土記稿』のとき、境内に子ノ権現社があり、熊野・稲荷を合祀していた(1)。
1954年の『国府津町誌』によると、境内に子権現社があり、熊野権現を合祀していた(6)。
2022年現在、境内には子ノ権現社がある(4)。
とこしえの塔
境内に合葬墓の納骨堂があり、とこしえの塔と号していた(3)(4)。
土砂災害特別警戒区域
光明寺の境内を含む国府津06-6の区域(206-H26-73 国府津06-6)は、神奈川県の土砂災害特別警戒区域(急傾斜)に指定されている(2021年3月19日 告示第150号)。(2)
寺紋
寺紋は「隅切角に三」。(2019年調査)
リンク
- 光明寺とこしえの塔 ウェブサイト、更新時期不明
- YouTube 光明寺チャンネル
- 「桜も海も富士山も望むことのできる小田原市国府津の寺院「光明寺」」レアリア、2021年7月26日
- 「光明寺でお花見会」タウンニュース 小田原・箱根・湯河原・真鶴版、2016年4月2日号
- 「小田原市川東仏教会の会長に就任した 三浦紘善(こうぜん)さん」タウンニュース 小田原版、2014年5月31日号
参考資料
- 『風土記稿』
- 神奈川県土砂災害情報ポータル 区域図
- 光明寺とこしえの塔 ウェブサイト、更新時期不明
- 2022年調査
- 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.420
- 国府津町誌編纂委員会「光明寺」『国府津町誌』国府津町、1954、201頁
- 『国府津町誌』71頁
- 「明治三十五年大津波の記」『国府津町誌』213-217頁
- さんわ会25周年記念誌編集委員会『下府中地域 我が町の今と昔』さんわ会、2000、79-80頁