富水青年団(とみずせいねんだん)

沿革

創設

創設には2説あり、

  • 平塚・井上1985によると、富水青年団は、1906年(明治39)9月1日に発足した。発起人は山崎秀源で、青年の夜遊び(遊廓通い)を止めさせること、健全な育成・人格形成を目的とした。初代団長も山崎だった。(3:77)
  • 津田1984:79頁によると、富水青年団は、昭和のはじめ頃(昭和元は1926)に設立された富水の14の部落の連合青年団で、初代団長は飯田岡の山崎益哉(山崎秀源の子(2))だった(1)

売薬

1928年(昭和3)に清水新田金子利治(当時22歳)が団長に就任した(3:78)。金子は、団長判断で会費(当時30銭/年)を徴収しないことにし、代りに会の活動によって財源を得ようと、奈良の森田薬局と契約して1929年(昭和4)から売薬を取扱った(3:78)。1年目には「ひろめ料」の名目で、40銭/戸×600戸=240円の収益を得、その後も長く売薬の仕事が青年団の財源となった(3:78)

水源地建設反対運動

1933年(昭和8)2月、水源地建設問題が紛糾した際に、金子は当初、青年団員による政治活動に慎重な姿勢を取り、その後、水源地の建設を部落が認め、建設反対運動が激化したことに伴って、同年4月に辞任した(3:80)。富水青年団は、水道水源地反対連盟に参加することになり、同年7月14日に起きた足柄騒擾事件では被検挙者を出し、団員3名(これは富水全体の人数か西北支部の人数か不明)が有罪判決を受け、服役した(3:80,82)。青年団は控訴公判に際し、減刑嘆願書を作成し、署名を集めるなどした(3:82)

戦時下の活動

1936年(昭和11)5月、西北支部から第1師団渡満兵が出征するのを見送った件(3:83)をはじめとして、戦時中は、出征兵の見送りや慰問のための金銭・物品の送付、神社への祈願などの活動が行われた(3:83,84)

1943年(昭和18)-1944年頃には慰問品の発送ができなくなり、演芸会を催して遺家族を慰安するなどの活動をしていた(3:84-87)

解散

青年団は1961年(昭和36)に解散した(3:81)

組織

上部組織

足柄連合青年団(会)(3:79,81)

支部

(時期不定で)蓮正寺、飯田岡、堀之内中曽根西北久所北ノ窪府川穴部の9支部から成っていた(3)

入団資格

高等科2年卒業の者から30歳位の若者は誰でも本人の希望で入団できた(3)

団員数

  • 1906年(明治39) 戸数 約450戸 団員 約150人(3)
  • 1928年(昭和3) 〃 約600戸 〃 約200人(3)

幹部

本団に、団長と副団長、幹事4名を置き、各支部の役員として部長・副部長と幹事3名が置かれた(3)

会費

明治期の会費は1人・1年あたり10銭、昭和初期の会費は同30銭だった(3)

参考資料

  1. 津田1984:津田サキ子「富水西北公民館の移り変り」富水西北史談会 編『ききがたり 富水西北の歴史 第1巻』富水西北公民館、1984・昭和59、76-84頁
  2. 穂坂正夫「山崎秀源先生頌徳碑」同書74-76頁
  3. 平塚・井上1985:平塚昌一・井上春江他「青年団と婦人会 戦前の活動」富水西北史談会 編『富水西北の歴史 第2巻』富水西北公民館、1985・昭和60、77-94頁

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