県立第二中学校(けんりつだいにちゅうがっこう)は、旧制小田原中学校、小田原高等学校の前身にあたる旧制中学校。1901年(明治34)4月に(2)、小田原城内の御稗庫跡(1994年当時のJR小田原駅の位置)に開校した(県立第二中学校旧址)(1:19)。定員500名で、吉田松陰の甥にあたる吉田庫三が校長に着任した(3)。尾崎一雄の「あの日、この日」という作品に、当時の地図が書かれている(1:20)。
1905年(大正4)に火災で焼損(3)。明治後期に国府津から小田原への鉄道(熱海線・東海道線)敷設が計画されていたこともあり(1:20)、八幡山の山上に移転した(3)。
- 松浦1994:20頁によると、1913年-1914年(大正2-3年)に八幡山へ移転した(1)。
のちに神奈川県立小田原中学校と改称、戦後の学制改革で神奈川県立小田原高等学校となった(3)。
参考資料
- 松浦1994:松浦正郎「小田原が生んだ 辻村伊助と辻村農園」箱根博物会、1994
- 「年表」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、148-151頁
- 倉田俊丸『ある城下町の教会 小田原教会七十五年の歩み』日本基督教団、1962、17-18頁