杖突街道
明治期に活躍した、洋画家・書家。伊那市高遠町に居住していた事がある。 生い立ち 慶応2(1866年)年7月10日、東京京橋八丁堀に生まれる。幼名を鈼太郎という。父源蔵は上伊那郡平沢村(現在伊那市平沢)の網野家の生まれで、高遠の名門中村家のりゅうと結婚し、財産分けを受けて分家した。当時、父源蔵は江戸で書役を務めていたが、明治維新後書役が不用となったので、不折が5歳の時に郷里の高遠に帰り、諸町に居住した。 家が貧しかったため、11歳で松本の商家の小僧、13歳で上諏訪町の呉服屋の年期奉公を務め、16歳に再び高遠に戻り菓子職人になる。しかし元来学問が好きなため、独学で数学を学び、さらに南画(日本画)を土地に居住の画家真壁雲郷、書を白鳥拙庵に師事し、18歳の時に小学校準教員の検定に合格し、教員となる。21歳の時に飯田小学校(現在の飯田市大手町小学校)に赴任する。その時の生徒の中に菱田春草がいた。 絵画勉強のために上京 19歳の時、長野の夏期講習に出席し師範学校教師、高野次郎に洋画の手ほどきを受ける。この時高野氏から「洋画を本格的に勉強するなら、東京に行くように」と勧められる。折から時事新報紙の広告欄に、小山正太郎が主宰する十一字会(後の不同舎)で研究生を募集することを知り、21歳の時に小山正太郎に師事するため、甲州街道を歩いて上京し、高橋是清の物置3畳間を借りる。 中村不折と正岡子規 明治27年、中村不折は正岡子規に初めて出会い、意気投合する。不折は、当時正岡子規が主幹していた新聞「新日本」の子規の句に小さな挿絵を添えて、紙面の刷新を図った。 この後正岡子規を接点として挿絵画家、装幀家として多くの文学者との間に交流が生まれ、後に夏目漱石、島崎藤村、森鴎外らの諸作品が不折の装幀・挿絵によって大きな付加価値を与えられることとなる。 一方、正岡子規にとって洋画家・不折の主張する写実という概念は新鮮なものであり、写実文を提唱して近代文学の革新を推進していく上で少なからず影響を受けたと言われている。 中村不折寿像 不折の還暦を祝い、洋画家を養成してきた太平洋画会の門下生一同が寿像贈呈したものである。胸像は、大正15年に門下生の堀進二が制作し、帝展に出品した後、翌昭和2年になって東京都台東区根岸の不折邸(現・台東区立書道博物館)に設置され、3月13日に除幕式が行われた。当時、この胸像と同じものが不折の故郷である高遠町(現・伊那市)に贈られ、高遠城址公園に据え付けられた。 寿像はブロンズで作られており、台柱正面には、「中村不折先生寿像」(雪山書)と書かれた銅版、裏面には不折の功績を称え、寿像建設の経過が書かれた銅版がはめ込まれていたが、裏面の銅版はいつからか無くなっている。また、左手に持つ絵筆は3本とも途中から折損している。 寿像が公園に設置されていた時は、幅212cm、105cm、85cmの各正方形、高さそれぞれ22cm、24cm、21cm3段の台座の上に、高さ127cmの胸像台が立ち、総高194cmの台座の上に胸像が据えられていた。 寿像は長年の風雨にさらされ、胸部に亀裂を生じて来ており、老朽化と破損を防ぐため、文化庁の指導を受け、不折の作品を収蔵する信州高遠美術館内に平成20年3月に移転設置された。 参照: 中村不折秀作集:平成14年3月、中村不折顕彰会企画発行 伊那谷の生んだ芸術家たち:P159 ...
中村不折
高遠学校とは、現在の高遠町図書館の位置にあった、小学校である。 高遠学校創立まで 信州高遠藩の藩校である進徳館が、明治5年(1871年)廃藩置県に伴って廃校になった後、同年7月高遠県学校となる。しかしやはり同年11月には府県の統合が行われ高遠県が筑摩県に統合されたため、高遠県学校も廃校となる。明治5年8月に、西高遠建福寺を仮校舎として、筑摩県管内第十八小校が創設される。これは筑摩県の学校創設勧奨により、郡内東部一円を学区として早々に開設された郷学校である。 これらの県が創設した学校に対し、明治5年に政府が制定した「学制」に基づいた学校が必要になり、第十八小校は廃止され、明治6年に時雍(じよう)小校と改称された。このとき同校より分離して東高遠西竜寺に新徳学校が開設された。こうして高遠には東西にそれぞれ一校づつ小学校が設立された。 明治19年統合されるまで13年間、高遠町にはこの二校制が続いた。その間、新徳小校は明治7年に新徳館跡に移転され、明治8年には「東高遠学校」「西高遠学校」とそれぞれ改称された。また、明治11年に西高遠学校は満光寺に移った。両校の合併は両地区民の感情・校舎の位置などの難題が絡んで容易にまとまらなかった。 明治17年に西高遠学校が現在の高遠図書館がある位置に校舎の新築を始め、明治18年に落成、開校式をあげた。これにより明治5年以来続いていた仮校舎住まいに終止符を打った。明治19年に東高遠学校や、近隣の上山田・下山田・勝間の5校が合併統合し上伊那郡立高遠学校として発足した。 義務教育の推進により、明治14年には児童の出席率が68%程度だったものが明治18年には96%となった。 尋常高等小学校 明治21年、小学校令の実施により、上伊那郡立高遠尋常小学校となった。このとき高等科が分離して上伊那郡立高等小学校の高遠分教場となった。明治25年上伊那郡立高等小学校が廃止されるとふたたび高等科と合併し、上伊那郡立高遠尋常高等小学校となり。この後昭和16年高遠国民学校と改称されるまでこの校名が続いた。 明治24年には校舎増築を行う。明治30年代になると子守学級、特別学級(製糸工女対象)などを開設して修学困難な子女への教育普及を考えた。 明治20年代は国家主義の高揚期であった。やがて日清・日露戦争へと発展し、出征兵士の見送りや軍人の武勇伝、戦死者の町葬儀への児童・生徒の参加が多くなった。
高遠学校