北村 透谷(きたむら とうこく、1868年 - 1894年)

経歴

明治元年(1868)11月(1)ないし12月29日(2)小田原宿の唐人町(1994年当時の浜町3-2)で、小田原藩の藩医・儒者だった父・北村快蔵と、妻・ユキの間に、長男として生まれた(1)(2)。本名は門太郎(もんたろう)(1)

父・快蔵は明治2年(1869)2月27日に単身で上京して昌平学校(後に大学?)に入学(2)。同年6月19日に版籍奉還が行われ、旧藩士のほとんどが食禄を失った(2)。快蔵は明治4年(1871)に同校を卒業した後、小田原へ戻り、足柄県の少属として勤務していたが、1873年(明治6)秋に妻・ユキと、同年5月に生まれた弟・垣穂を連れて上京し、大蔵省へ出仕(2)。ユキは日本橋照降町の自宅で呉服屋を営んだ(2)。透谷は父母と別れて小田原の祖父母のもとで暮らし、推定1875年(明治8)に小田原の小学校に入学した(2)

1876年(明治9)、祖父・玄快が中風で倒れたため、父・快蔵は辞職して小田原へ戻り、足柄上郡役所の上席書記となった(2)

1881年(明治14)、父・快蔵が大蔵省に復職することになり、一家で東京へ移住(1)(2)京橋区弥左衛門町7番地に住居し、母・ユキは煙草の小売店を開店した(2)。透谷と弟・垣穂は、泰明小学校に転入学した(2)。この頃、自由民権運動が高潮していた時期で、透谷は運動に触発されて、政治家になることを志していた(2)

1882年(明治15)1月、泰明小学校を卒業し、岡千仞の漢学塾、蒙軒学舎共慣義塾などに学んだ(2)。しかし、学習内容に不満を覚え、政治情勢などにも憤慨して、鬱病になった(2)

1883年(明治16)、神奈川県会の臨時書記となり、英語修業のため、横浜居留地20番館のグランド・ホテルのボーイに雇われた(2)。同年9月、東京専門学校(早稲田大学の前身)の政治科に入学(1)

この頃、政治家を志していたが、1885年(明治18)の自由党大井憲太郎大阪国事犯事件大矢正夫要路大官襲撃未遂事件朝鮮革命計画などに居合わせて、政治運動とは訣別した(2)

同年、石坂美那子と出会い、政治運動を離れて各地を旅行(2)。紆余曲折を経て1888年(明治21)11月3日、19歳のとき、石坂と結婚し、弥左衛門町の自宅で暮らした(2)

1889年(明治22)4月9日に『楚囚之詩』を自費出版し、1891年(明治24)に『蓬莱曲』を発表した(1)(2)

1892年(明治25)に、「女学雑誌」「厭世詩家と女性」ほか数編の評論および詩を発表(2)。1893年(明治26)1月に『文学界』を創刊し、島崎藤村、戸川秋骨、平田禿木、馬場孤蝶、星野天知らと、新しいロマン派の文芸運動を提唱し、「富岳の詩神を想う」「山庵雑記」などを発表(2)

この頃から精神に失調をきたし、同年8月、前川村長泉寺に転地療養しながら、明治女学校で教鞭をとり、また宗教雑誌『平和』の編集にあたった(2)。「五縁」「十夢」「悪夢」などの稿を起し、評伝「エマルソン」の研究論文を書き始めたが、未完のままとなった(2)

1894年(明治27)に東京の京橋区弥左衛門町の家に帰り、更に芝公園の旧居に移ったが、同年5月16日夜、自宅の庭で死した(1)(2)。死去の翌日、自宅でキリスト教式の葬儀が行われ、遺骸は同日、芝・白金台町の瑞聖寺の共葬墓地に葬られた(1)(2)

墓碑・記念碑

記念碑

1929年(昭和4)7月に小峰公園城山)の大久保神社の境内に透谷碑が建立された(2)。2023年現在は南町小田原文学館の敷地内に移されている(2019年調査)

また1954年(昭和29)に透谷碑が小峰公園から城内へ移された際に、浜町の透谷の生家跡にも標識の石柱が建立された(2)

北村透谷の墓は、1954年(昭和29)5月13日に、瑞聖寺から父母の墓のある城山高長寺に改葬された(1)(2)

関連文献

  • 島崎藤村「春」は透谷の晩年のことを書いた小説(2)

参考資料

  1. 播摩1994:播摩晃一「近代文芸の先駆北村透谷」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、26-27頁
  2. 石井1963:石井富之助「1 北村透谷」神奈川県立図書館『神奈川県の歴史 県下の文学編 上』〈神奈川県立図書館シリーズ8〉神奈川県立図書館、1963、68-72頁

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