佐奈田 与一(さなだ よいち、保元元年(1156) - 治承4年(1180)8月23日)、佐奈田義忠(さなだ よしただ)は、治承4年(1180)の石橋山の合戦のとき、源頼朝の軍勢の先陣をつとめて戦死した三浦氏一族の武士。岡崎四郎義実の長男。(1)

このとき義忠は岡部弥次郎を討ち取ったが、その後、俣野五郎景久と戦い、景久を組み敷いているときに、合流してきた長尾新六定景に討取られた。享年25歳。(1)

治承4年(1180)8月23日、数千強兵、襲攻武衛(頼朝)之陣、而計源家従兵、難比彼大軍、皆依重旧好、只軽命效死、然間佐那田余一義忠、並武藤三郎及郎徒豊三家康等殞命、

『吾妻鏡』は名前を「佐(那・奈)田(余・与)一義忠」としているが、『源平盛衰記』は「(佐奈田)与一義定」としている(以下、長文で同書からの引用があるが、省略する)(1)

同年9月、頼朝は義忠の母のもとに使いを遣り、(源氏の残党狩りが行われることを懸念して)その幼い子供を、当時、頼朝が拠っていた下総国に移らせるよう命じている(1)

  • 『吾妻鏡』の引用(1)
(同年)9月29日、被遣専使於佐那田与一義忠母之許、是義忠石橋合戦時、忽奉命於将殞亡、殊令感之故也、彼幼息等在遺蹟、而景親已下相模伊豆両国凶徒輩、成阿党於源家之余、定挟害心歟之由、賢慮思食疑之間、為令安全、早可送進于当時御在所下総国之由被仰遣、

その後、頼朝は、長尾定景を捕らえたので、義忠を討ち取ったことが特に許し難いとして、義忠の父・義実に身柄を預けた。しかし義実は慈心をもって頼朝に赦免を願い出たため、養和元年(1181)7月に定景は助命された。(1)

  • 『吾妻鏡』の引用(1)
(養和元年・1181)7月5日、長尾新六定景蒙厚免、是去年石橋合戦討佐奈田与一義忠之間、武衛殊被処奇怪、賜于義忠父義実、義実元自専慈悲者也、仍不能梟首、只為囚人送日之処、定景令持法華経、毎日転読敢不怠、而義実称去夜有夢告申武衛云、定景為愚息敵之間、不加誅戮者、雖難散鬱陶、為法華持者、毎聞読誦之声、怨念漸尽、若被誅之者、還可為義忠之冥途讐歟、欲申宥之、者仰云為休義実之鬱下賜畢、奉優法華経之条尤同心也、早可依請者則免許、

建久元年(1190)の正月に、頼朝は、伊豆権現へ参詣する道中、石橋山を通りかかり、佐奈田義忠の墳墓(与一塚)豊三家安の墳墓(文三塚)を目にして、昔のことを思い出して、涙を流した(1)

  • 『吾妻鏡』の引用(1)
(建久元年・1190)1月20日、二品(頼朝)御参伊豆権現処、於路次石橋山、覧佐奈田与一豊三等墳墓、御落涙及数行、是件両人治承合戦之時、為御敵被奪命訖、今更被思食出其哀情之故也、

同8年(1197)に、頼朝は、義忠の冥福を修すため、鎌倉郡本郷上之村(横浜市栄区上之町)に寺院を建立し、「証菩提寺」と号した(1)

  • 『吾妻鏡』の建長2年(1250)4月16日の記録に、「山内証菩提寺住持、申当寺修理事早召損色、可成土水之由被仰出、是右大将御時、佐奈田与一義忠菩提、建久8年(1197)建立之後、雨露雖相侵、未能此式云々」とある(1)

建保4年(1216)8月に、鎌倉将軍・源実朝は、北条相模守義時に命じて、同寺において義忠の追善を修せさせたことがあった(1)

  • 『吾妻鏡』の引用(1)
(建保4年・1216)8月24日、相州承仰於菩提寺、修故佐奈田与一義忠追善給、

参考資料

  1. 『風土記稿』石橋村 佐奈田与一義忠墳

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