富水西北公民館(1993年)(2)富水西北 公民館(とみずさいぼく こうみんかん)は、小台にある、富水西北地区の地区公民館(1)(4)

沿革

青年会の若衆宿

日露戦争時代には、地域の若年男性の青年会活動が活発になった(2:76)。明治末期(明治45・1912)、青年団の指導者だった市川慶助は、東京で暮らしていた海軍軍人・鍵和田専太郎の留守宅(小台128番地)の管理を任されていたことから、その入口左手にあった藁葺の物置を改造して、青年会の若衆宿として利用できるようにした(2:76)。広さは10畳1間だった(2:78)。庭には力石が10個ほど置かれ、夏場は集まってよく相撲が行われた(2:76-77)。また地元の年配者の指導を受けて、習字俳句も盛んに行われた(2:77)

第2の青年会場

1917年(大正6)頃、1984年当時の綾部勝所有の倉庫の場所に第2の青年会場が建てられた(2:78)。広さは8畳2間となり、囲炉裏も設けられた(2:78)。この時から、会場は小台・新屋柳新田上清水新田の4部落で使用するようになり、建設費はそれぞれ分担した(2:78)。青年会は、休日に野山に萱刈や薪採りに行って売り立て、活動資金を稼いだ(2:78)

この活動資金により、村で消防車を購入した(2:78)。また青年会場で年末の「火の用心」の見回りを引受けた(2:79)。新しい青年会場でも力石による力比べが行われ、20個近くが新屋稲荷神社の境内に置かれていた(2:78-79)

西北青年会場

1926年(昭和元)頃、敷地に倉庫が建てられることになったため、青年会場は1984年当時の綾部ストアの土地(水田)に移ることになった(2:79)。新設の会場は、西北青年会場と呼ばれた(2:79)。奥の間には床の間が設えられ、長押に額も掲げられていた(2:79)

この頃、主に会場を利用していた西北青年団の1933年(昭和8)から1960年(昭和35)までの活動記録が残されており、1984年当時、公民館に保存されていた(2:79-80)

戦後、1950年(昭和25)頃には、卓球が人気となり、青年会場の畳を上げて卓球台が設置され、根太や鴨居を外して競技が行われるようになった(2:80)

富水西北地区公民館

戦後、新たな公民館設置要綱(1946・昭和21)や、社会教育法(1949・昭和24)が示され、従来の青年会場が手狭になっていたことから、規模を拡大した公民館新設の機運が高まった(2:80-81)渡辺竹四郎が、所有していた小作地の水田(小台152番地)を新設公民館の用地として提供することを承諾したことから、新設計画が急速に進展(1)(2:81)。1951年(昭和26)8月に西北4部落全員の集会で、公民館建設を決議し(3:84)、翌1952年(昭和27)5月には建物が竣工、同月、地区公民館・富水西北公民館が開館した(3:89)

『小田原の公民館』『市公連40年のあゆみ』によると、公民館設立は1952年(昭和27)3月30日のこと(2)(3)

所在地

小台152(1)(2)または小台163(3)

面積・建物

富水西北公民館(1966年)(3)建坪は30坪(約99m2(2:81)(7)(8)。木造平屋建(7)(8)

地区ブロック

北部(6)(7)

参考資料

  1. 井上春江「ふるさとの径(こみち)」富水西北史談会 編『ききがたり 富水西北の歴史 第1巻』富水西北公民館、1984・昭和59、1-3頁
  2. 津田サキ子「富水西北公民館の移り変り」同書76-84頁
  3. 著者不明「富水西北公民館創立開館の記録(抄)」同書84-82頁
  4. 市文化部生涯学習課生涯学習係「地区公民館」市公式サイト、最終更新2020年11月20日
  5. 松浦正郎「小田原が生んだ 辻村伊助と辻村農園」箱根博物会、1994
  6. 小田原市 文化部 生涯学習課 生涯学習係「地区公民館について」小田原市ウェブサイト、2023年4月14日更新
  7. 小田原市公民館連絡協議会『公民館 市公連40年のあゆみ』同左、1993・平成5年2月、39,77-82頁
  8. 小田原市中央公民館『小田原の公民館』小田原市教育委員会、1966・昭和41年3月、36-38頁