松原神社松原神社(まつばらじんじゃ)は、本町2丁目にある神社(1)。2021年1月1日現在、神社本庁傘下の被包括宗教法人(1)

後北条氏の崇敬を受け、玉滝坊を別当寺とし、西光院を供僧とした松原明神(しょうげんみょうじん)社を前身とする。

江戸時代には境内に末社12社があり、小田原宿内19町の惣鎮守とされていた。三浦浄心北条五代記』に、境内の池とカメにまつわる逸話を載せる。

沿革

南北朝時代

『風土記稿』のときの、宮前町の松原明神社の社伝によると、往古は鶴森明神という社号だった。これは後醍醐天皇の頃(在位1318-1339)、真名鶴(マナヅル)が住んで居たことから、当地が「鶴の森」と呼ばれていたことに由来していた(3)

戦国時代

同じ社伝によると、時代が下って天文年間(1532-1555)に、山王原村(東町)の海中から金仏の十一面観音が石窟に入って松原に出現し、その託宣によって当社へ移され、本地仏とされた(3)。このときに神号を(松原明神に)改めたといわれていた(3)

  • 『風土記稿』のときも、社地に観音が現われたときのものという4尺(約1.2m)四方の石室があり、像高4寸2分(約12.7cm)の本地仏があった(3)。観音の出現は旧暦5月6日の出来事で、そのとき剪麦を供えたとして、毎年5月6日に剪麦が供えられ、氏子にも配布されていた(3)
  • 一説に、往古は山王原村の松原にあったので、この神号になったともいわれていた(3)

後北条氏は松原明神社を崇敬し、北条氏綱は駿州へ発向したときに祈願をし、帰陣した後の天文8年(1539)7月に伊羅窪20貫文の地を神領に寄進した(西光院文書)(3)

  • 「伊羅窪」は『風土記稿』に早川庄 谷津村(城山)の小名としてみえ、「村南にあり」と記されていることから(8)、『所領役帳』補注は、JR小田原駅近辺と推定している(7)

天文11年(1542)4月に、北条氏康は修理料として、河原新田10貫文の土地を寄進した(玉滝坊文書)(3)

永禄年間(1558-1570)の『所領役帳』には、「小田原松原大明神領、(社領)33貫200文、西郡伊羅窪分、西光院拘(抱)」とある(3)(6)

元亀3年(1572)5月には、後北条氏が松原大明神の社中を洒掃するよう掟書を発出し、岡本越前守を検使として派遣するなど厳しく指示があり、その他にも掃除の件に関して、しばしば指示が出されていた(西光院文書)(3)

天正9年(1581)10月には、瑞籬(みずがき、玉垣)の修理を命じた(西光院文書)(3)

天正16年(1588)3月には、北条氏直が所願の祈念成就により、上州館林の2千疋の土地を寄進した(西光院文書)(3)

寛永18年(1641)刊の三浦浄心北条五代記』には、天文14年(1545)の春に、北条氏康が河越の籠城戦での戦勝祈願のため、松原大明神(しょうげんだいみょうじん)の宮寺で護摩を修したところ、小田原の海岸に大亀が上がり、松原大明神の池の辺りに運んで来られたのを見て瑞祥だと喜び、亀の上に鏡を載せて一家一門が集まって祝宴を催した後、大亀を海へ放し、更に松原大明神の前庭で4座の大夫が法楽能を7番舞い、最後に4座の大夫が揃って泰平楽を舞った、との逸話を載せている(3)(4)

また天正18年(1590)の小田原合戦の件に、籠城中も松原大明神の宮の前に毎日市が立っていた、との記事がみえる(5)

江戸時代

『風土記稿』のとき、宮前町(本町)に、玉滝坊を別当寺とし、西光院を供僧とする松原明神社(しょうげんみょうじん - やしろ)があり、小田原宿内19町の惣鎮守とされていた(3)

社殿は、代々の小田原城主が修築していた(3)

明治期

明治2年(1869)、松原神社と改称(2)

1873年(明治6)1月、県社に列せられる(2)

祭神

『風土記稿』のとき、宮前町の松原明神社の祭神は、日本武尊で、神体は像高1尺2寸(約36cm)の束帯の像だった(3)

境内

末社

『風土記稿』のとき、宮前町の松原明神社の境内には、末社12宇があり、それぞれ幣束が安置されていた(3)。12宇とは、八幡鹿島天王道祖神星月夜神松尾三峯第六天稲荷摩利支天疱瘡神および太神宮(3)

神木

『風土記稿』のとき、宮前町の松原明神社の境内には、高さ7丈4尺5寸(約22.6m)、周囲1丈5尺(約4.5m)の銀杏樹があり、神木とされていた(3)

御手洗池

『風土記稿』のとき、宮前町の松原明神社の社前には池があった(3)。この池のことは、上記の『北条五代記』の記事にもみえる(4)

鐘楼

『風土記稿』のとき、宮前町の松原明神社には鐘楼があった(3)。古い鐘が掛けられていて、銘文は漫刓して(ぼんやりと削られて)いてほとんど読むことが出来ず、「武州保隆保寺、奉冶鋳、景弘沙弥性仏、大檀那小野直重、康永三年(1344)閏二月時正第一日」という数十字だけを読み取ることが出来た(3)

1981年の松浦豊『三浦半島の古刹めぐり』によると、当時の三浦・本端(瑞)寺の鐘楼堂の鐘には「康永三年(1344)閏二月武州隆保寺」の銘があり、明治の廃仏棄釈の折、小田原の松原神社の鐘が出物として売り出されたものを、村人が金を出しあって買い求めたものといわれていた(9)

本瑞寺の銅鐘は1969年(昭和44)に「駒の爪も低く、鎌倉鐘としての姿を残すもの」として、県の文化財に指定されている(9)(10)

年中行事

月日 祭礼名
1/1 元旦祭
1/14 小祭
2/3 節分祭
2月不定期 祈年祭
5/3-5 例大祭
9/14 小祭
11月不定期 新嘗祭

資料:神奈川県神社庁(2)

例祭

『風土記稿』のときの、宮前町の松原明神社の例祭は、旧暦1月14,15日と、旧暦9月9,10日だった。祭日には辰の刻(午前8時~)に神輿を担いで小田原城馬出門に至り、それから海岸へ下って、町中を担いで回ってから帰輿していた。この儀式は、大久保相模守忠隣が城主だった頃から続けられている、といわれていた。(3)

リンク

参考資料

  1. 神奈川県ホーム > 教育・文化・スポーツ > 文化・芸術 > 宗教法人 > 宗教法人について > 神奈川県知事所轄の宗教法人 > 宗教法人名簿(令和3年1月1日現在) > その他1 宗教法人名簿(PDF:708KB)
  2. 神奈川県神社庁ウェブサイト>神社詳細>松原神社、更新時期不明、2023年2月21日閲覧
  3. 『風土記稿』小田原宿 上 宮前町 松原明神社
  4. 『北条五代記』寛永版 巻8(9)「大亀陸へあがる事」『仮名草子集成 第63巻』(東京堂出版、2020)p.23
  5. 『北条五代記』寛永版 巻7(3)「小田原城攻の事」『仮名草子集成 第62巻』(東京堂出版、2019)p.250
  6. 佐脇栄智(校注)『小田原衆所領役帳』東京堂出版、1998、161頁
  7. 『小田原衆所領役帳』218頁 補注72
  8. 『風土記稿』早川庄 谷津村 小名
  9. 松浦豊『三浦半島の古刹めぐり』昭和書院、1981、107-108頁、三浦(三崎方面) 本端(瑞)寺
  10. 神奈川県『文化財目録』令和4年(2022)5月1日現在、43頁

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