国道から車で30分の上富田町岩田の田熊という所に、当山脈といわれる真言宗系の醍醐寺(だいごじ)の三宝院に帰属する山状で、慈道院という人が住んでいました。彼は三宝院門跡が、吉野大峰山から熊野三山へ「逆の峰入」をされる度ごとに、「奥駈七十五靡」の先達をつとめたその道の達で田熊の女郎渕という渕で祈禱(きとう)(祈ること)して、雨を自由自在に降らせたり止めたりしたといわれ、また大きな下駄を履いて、20メートルもある川幅を飛び越える奇跡を行い、里人から畏敬(崇高なものや偉大な人を、おそれうやまうこと)されたと伝えられています。 ある年、日照り続きで村中の稲が枯れかかり、里人たちは慈道院に雨乞いを願い出ました。彼は直ちに女郎渕に参籠して祈禱を捧げ、里人たちに 「急いで家に帰られよ。今すぐ大雨となり申す。」 といって、持って来た弓を射ると、みるみるうちに四辺が暗くなり、大雨が降り出しました。具合よく水が行き渡った頃を見計らい、下流に下って再び弓をとり矢を放つと、ぴたりと雨が止んだので、人々はその霊験のあらたかさに驚き入り、歓喜したといわれています。 また慈道院が吹いていたほら貝は、三斗三弁(60メートル)入り、大きなものであったといいます。 女郎渕から、富田川の栗山渕へ通ずる抜け穴があったとみえて、女郎渕へ神酒を捧げ、膳を渕に投げ込むと、翌朝少しも損傷しないで、数百メートルを距(へだ)てて、途中に大きな山で区切られた栗山渕の祠の前に出てきたと伝えられています。
女郎渕と慈道院 田熊 ~岩田~
富田川の昔の流れ
上富田町の生馬橋を渡って、市鹿野へ向かう県道を4キロほど行くと、上鳥渕の部落にさしかかります。ここから小橋を渡り右側に分かれる山道は昔の宇津木越えで、かつては日置川奥と田辺を結ぶ間道でした。 この道の東側に見える、標高330メートルの山が「上の山」で、山頂には立岩とよぶ巨岩がそびえ、麓の磐座(いわくら)(信仰される岩のこと)に「上の山神社」が祀られています。 上の山神社は最近まで小祠もなく、折り重なった一群の巨岩が信仰の対象でした。山に入るときには、必ずここに詣り、神の許しをうけないと、祟りがあるといわれます。 この山の主は大蛇で、人々の入山をきらい、勝手に山に入ると、はじめに長さ10センチほどの小蛇が現われ、それに気付かずに登って行くと50センチ・1メートル・2メートルと蛇がだんだん大きくなって道をふさぎます。山頂付近では、胴回り30センチをこえる大蛇になります。これを見た者は、精神異常や不治の奇病にとり付かれ、なかには生命を失う者が出たので、昔は里人からたいへんおそれられていたといわれます。 また、女性は、月のものがあるときには入山をひかえ、家人にそれがある場合は、別火で朝食や弁当をこしらえてこの山に入ったといいます。 この付近を流れる谷川のみずが、急に涸れて干し上がり、しばらくすると、もと通りに流れはじめることがあり、昔から、これは山の主の大蛇が、谷川に水を飲みに来たために起こるのであると伝えられています。
山の上の大蛇伝説(鳥渕) ~生馬~
上富田町岩田に昔、九平さんという大金持ちがいて、牛や馬をたくさん飼っていました。ある年の夏、深い片井の渕のそばに馬をつなぎ、草を食わせていました。この渕に長年すんでいるゴウライボーシ(河童)は、この馬を渕に引き込もうとして、馬をつないだ綱をはずして水際まで引き寄せました。ところが馬は急に躍り上がって一目散に家にかけて帰ったので、綱の先のゴウライボーシは綱をはなす暇もなく、綱を握ったまま連れてこられました。家人はただならぬ馬の騒ぎに出てよくみると、綱の先に一厘銭が食いついています。家人は、渕にすむゴウライボーシにちがいないと、青松の葉を燃やし始めました。さすがのゴウライボーシもたまりかね「どうか命だけは助けてくれ」と正体を現しました。そこで岩田と生馬の村境まで大勢で送り出し「この松の木がはえている間は、再び岩田の地を踏んではならぬ」と約束させて、富田川に放してやりました。この松は当時村境の一本松と呼ばれて大松であったが、数十年の後には枯死してしまいました。それで老人たちは「一本松が枯れたから、うかうか水を浴びるな」といって、河童がまたのぼってくることを案じていました。 片井渕の上には今もほこらが祀られています。 この岡川の上手の蔭ノ間には、ゴウライボーシが衣をつけた坊さんに化けて立っていたといいます。また、その上手の小坊付近の川では、魚に化けて水中をうようよ泳いだり、かんざしに化けて女の人が水の中へ拾いにくるのを待っていたりしたといいます。 そこから更に上手には田中神社があり、例祭には人身御供のかわりとしてヨリメシと称する握り飯が供えられるので、ここから上流にはゴウライボーシはのぼって来ないと土地の人には信じられています。 <熊野文庫より引用>
岩田の河童
上富田町岩田に昔、九平さんという大金持がいて、牛や馬をたくさん飼っていた。 ある年の夏、深い片井の渕のそばに馬をつなぎ、草を食わせていた。 この渕に長年すんでいるゴウライボーシ(河童)は、この馬を渕に引き込もうとして、馬をつないだ綱をはずして水際まで引き寄せた。 ところが馬は急に躍り上がって一目散に家にかけて帰ったので、綱の先のゴウライボーシは綱をはなす暇もなく、綱を握ったまま連れてこられたのであった。 家人はただならぬ馬の騒ぎに出てよくみると、綱の先に一厘銭が食いついている。 家人は、渕にすむゴウライボーシにちがいないと、青松の葉をもやしてすべた。 さすがのゴウライボーシもたまりかね「どうか命だけは助けてくれ」と正体を現わした。 そこで岩田と生馬の村境まで大勢で送り出し「この松の木がはえている間は、再び岩田の地を踏んではならぬ」と約束さして、富田川に放してやった。 この松は当時村境の一本松と呼ばれて大松であったが、数十年の後には枯死してしまった。 それで老人たちは「一本松が枯れたから、うかうか水を浴びるな」といって、河童がまたのぼってくることを案じていた。 片井渕の上には今もほこらが祀られている。 この岡川の上手の蔭ノ間には、ゴウライボーシが衣をつけた坊さんに化けて立っていたというし、その上手の小坊付近の川では、魚に化けて水中をうようよ泳いだり、かんざしに化けて女の人が水の中へ拾いにくるのを待っていたりしたという。 そこから更に上手には田中神社があり、例祭には人身御供のかわりとしてヨリメシと称する握り飯が供えるので、ここから上流にはゴウライボーシはのぼって来ないと土地の人には信じられている。
岩田の河童伝説
上富田町岩田の富田川右岸に、庚申松という高さ約20メートル、周囲約4メートルの大きな松がそびえています。この松の木の下に、庚申さんが古くから祀られているので、人呼んで庚申松といいます。その庚申塔のすぐかたわらに、むした小さな一個の墓がある。この石碑には「回道禅定門文化5年1月9日」と彫られており名前はないです。そこでこの村の寺を訪ねて由来を聞いてみると、こんな話が残されていました。 いつのころかわからないが、この村へと一人の順礼が現れて、村中をして歩いていました。ところがこの順礼、いつの間にやら、この村に住み着いて、庚申松の下へ小屋をかけ、村人のいうままに、はい、はい、はいと使い走りや、日雇いなどに雇われて重宝がられていたといいます。ところがこの老順礼、年には勝てずいつか病気がちにとなり、どっと寝込んでしまいました。近所の人たちの手厚い看護に感謝しながら、死の直前語ったところによると、彼は若い頃江戸浅草でかなり手広く商売をやっていたといいます。ところが性来の勝負好き、各地のバクチ場を荒らすうちに気も次第に荒くなり、ついにささいなことからけんかとなり、相手を殺してしまってお尋ね者だといいます。当時、江戸で流行した抜け参り(親や主人の許しを受けないで家を抜け出し、 往来手形なしで伊勢参りに行くこと)の列には、いわゆる関東兵衛の列に入って各地の宮やお寺を巡拝しているうちに気持ちもしだいに落ち着き、を思うといい、伊勢神宮に参拝します。次いで足をのばし、熊野参りの、矢も盾もたまらず、毎日念仏生活に日を送っていたといいます。そうして岩田の里に落ち着くと、やさしい村人たちに遇されて自分は幸福だ、お熊野さんのお陰だといいつつしたといいます。遺言によって村人が、庚申松の下に小さな墓を建ててやったが、 それから2年目に、江戸からはるばる娘が訪ねてきてねんごろに供養して帰ったといいます。 <熊野文庫より引用>
庚申松
上富田町岩田の富田川右岸に、庚申松という高さ約20メートル、周囲約4メートルの大きな松がそびえています。この松の木の下に、庚申さんが古くから祀られているので、人呼んで庚申松といいます。その庚申塔のすぐかたわらに、苔(こけ)むした小さな一個の墓がある。この石碑には「回道禅定門文化5年1月9日」と彫られており名前はないです。そこでこの村の寺を訪ねて由来を聞いてみると、こんな話が残されていました。 いつのころかわからないが、この村へ瓢然(ひさごぜん)と一人の順礼が現れて、村中を托鉢(たくはつ)して歩いていました。ところがこの順礼、いつの間にやら、この村に住み着いて、庚申松の下へ小屋をかけ、村人のいうままに、はい、はい、はいと使い走りや、日雇いなどに雇われて重宝がられていたといいます。ところがこの老順礼、年には勝てずいつか病気がちにとなり、どっと寝込んでしまいました。近所の人たちの手厚い看護に感謝しながら、死の直前語ったところによると、彼は若い頃江戸浅草でかなり手広く商売をやっていたといいます。ところが性来の勝負好き、各地のバクチ場を荒らすうちに気も次第に荒くなり、ついにささいなことからけんかとなり、相手を殺してしまってお尋ね者だといいます。当時、江戸で流行した抜け参り(親や主人の許しを受けないで家を抜け出し、 往来手形なしで伊勢参りに行くこと)の列には、いわゆる関東兵衛の列に入って各地の宮やお寺を巡拝しているうちに気持ちもしだいに落ち着き、前非(ぜんぴ)を思うといい、伊勢神宮に参拝します。次いで足をのばし、熊野参りの、矢も盾もたまらず、毎日念仏生活に日を送っていたといいます。そうして岩田の里に落ち着くと、やさしい村人たちに遇されて自分は幸福だ、お熊野さんのお陰だといいつつ瞑想(めいそう)したといいます。遺言によって村人が、庚申松の下に小さな墓を建ててやったが、 それから2年目に、江戸からはるばる娘が訪ねてきてねんごろに供養して帰ったといいます。
庚申松の伝説 ~岩田~
旅の僧が村里へやってき来て、水を所望したとき、この村にはよい水ができないので、適切な村人が遠くまで汲みに行って与えました。そこで、旅僧は手にしていた杖で地面をついたところ、そこから良い清水がわき出てきたといいます。旅僧が立ち去った後で、弘法大師であったことがわかったという話は、いわゆる弘法井戸、弘法清水、杖つき井戸などの名で全国的に広く分布しています。 上富田町朝来峠の国道四二号線のそばに弘法井戸があります。きれいな水が満ち、汲んだだけ湧き出て、あふれることがないといいます。昔、弘法大師が熊野へ行脚(あんぎゃ)の途上、水を求めたところ、遠くまで汲みに行って与えたので、「この土地は水に不自由のようだから、水の便をはかってやろう」と祈禱(きとう)を始めると、乾いた土地から清水が湧き出てきました。この井戸はどんな日照りにも涸れることがなく、昔から道行く人々ののどを潤したといわれています。 弘法水の伝説は日本伝説名彙によると、内容によって10種類にわかれるそうだが、これは親切にしてくれたので井戸を与えた類型に属し、杖の呪力ではなく祈禱によって水を出しています。 この付近から富田川の河口に至る村々では、以前は豌豆(エンドウ)を作らなかったといいます。大師に豌豆の喜捨(きしゃ)を乞われたが一粒も与えなかったので、その罰として豌豆を作るとさやに穴がないのに必ず虫が入るようになったからです。 本宮町大瀬には「まかずの蕎麦」があり、馬頭観音の境内に「蕎麦大師」が祭られています。弘法大師が熊野参詣のとき、腹をすかせた村人に食べ物を乞うと、村人は食べ物がないので、貯蔵していた蕎麦の種を全部、蕎麦粉にして施しました。大師は親切なもてなしに酬(むく)いるため「この蕎麦の殻をまけば後々食物に困ることはない」と、言い残して去ったが、いわれたとおりにすると殻から蕎麦が生え、それ以来、毎年種をまかなくとも「大師さまの蕎麦です」といって掘れば、必ず蕎麦が自然に生い茂るといいます。 これも弘法伝説で、類型の多い「成木もの伝説」です。米は「筒米」といって竹筒に米をいれてしまっておき、病人が重態となったとき、耳の許でこの筒を振って、米の音を薬にしたという話も残っています。山里の暮らしの中で、芋や蕎麦は主食に近い貴重な食料であった、それが、まかずに生えるのだから大師の威徳(いとく)もさりながら、この付近の山野は気候土質が蕎麦の成育に適し、少し離れた所では最近まで畑地や道端に、ところかまわず自生していたようです。 このような話が、弘法大師以外の高徳の僧や英雄たちの事蹟(じせき)になっているのも、全国的に広く分布しているが、この種類のものに本宮町湯峰の「まかずの稲」があります。 説軽節や浄瑠璃で名高い「小栗判官」が湯峰温泉に入湯したとき、藁で髪を結び、使いのこりの藁を捨てたら自然に根が生え稲になりました。そこの田地は年々籾をまかなくとも稲が実り、これを湯峰薬師の供物にしたといわれています。
弘法の井戸(蕎麦大師) ~朝来~
昔は、富田川(とんだがわ)はよう大水出て、そのたんびに田んぼや畑が流されてん。 ほいでに村の人は、大雨にも崩れんしっかりした堤防ほしなあて思いやってん。 ある年もまた大水出てな、人も馬も流されて死ぬし、田んぼも畑も埋まってしまうような目におうたんで、 もう、今度こそしっかりした堤防ほしいちゅうんで、氏神(うじがみ)さんにまいってお願いしてん。 ほいたら夢枕(ゆめまくら)に神さんが現れて「堤防に人柱を立てよ。そいたら堤防は安全や」て言うてんとう。 人柱ちゅうのは、神さんの心を慰(なぐさ)めるちゅうて、生けったある人を土の中に埋めることや。 さあ、いったいだいを人柱にしようかて、村の人は何べんも寄り合いしてんけど、なかなか決まらなんでん。 ほいたら、その場にいた彦五郎はんがさって立ち上がって 「こんがに相談しても人がないんやったら、わしに考えあるんやけど、言うてもええか」 て言うてんとう。村の人は、日ごろ無口な彦五郎が、急に大きな声でしゃべり出いたんでびっくりしてそっち見たら、 不精(ぶしょう)ひげいっぱい生やいた顔を、赤茶けた手拭(てぬぐい)の端で拭きもおて 「わしが思うに、あがから人柱になりたいていう人らおらんやろ。 ほいで、この場で、着物のつぎが横継ぎにあたったある人おったら、その人に人柱になってもらおやないか」 て言うんや。 村の人ら、なっとうしょうかてよわりこんだあったもんやさかい、そいはええ考えやちゅうて、 みんなお互いの着物のつぎ見せおうてんとう。ほいたら、なんとまあ、 言い出いた彦五郎はんの着物に大きな横継ぎのつぎが当たったあってんとう。ほいで、とうとう彦五郎はんが人柱になってん。 そいからこっち、富田川の堤防はどんなにえらい雨降っても切れんようになってんとう。 ...
彦五郎伝説 ~岩田~
上富田の救馬谷の小川といえば、紀南地方でもちょっと名の知れた霊験あらたかな観音様であり、風光の明眉なところとして知られています。この観音は自然の岩屋を利用してその中鎮座していて、参るには243の石段を登らなければなりません。 昔、この岩屋の中に陀々(だだ)鬼(き)羅(らは)祝(ふり)という山賊が住んでいました。手下を大勢従えて里へ出ては、盗み・人殺し・女さらい等の悪事を働いていました。 この賊は悪賢く力も強かったので、誰も進んで討つ者がいません。 それをよいことにして暴威をふるい、人々を苦しめていました。 その頃、新宮に高倉(たかくら)下命(かめい)がいて、この国を治めていました。 思いやり深く人徳があったので、住民の信頼を受けていました。 たまたま口熊野のこの地方に、この高倉下命に従わない賊徒がいることを聞き、討伐の軍を進めることになりました。 討伐の軍は新宮方面からはるばる進んできたものの、救馬谷は守るに易く めるのに難しい地形でした。しかも賊は天険によっています。まだよく国の開 けていない頃のことで、攻めるのも容易のことではありませんでした。 そのとき、攻囲軍の中に多計母致命という豪の者がいました。この者が夜陰に乗じて裏手から岩屋の上に登り、縄梯子を上から垂らして攻め入ったので、さしもの陀々(だだ)鬼(き)羅(らは)祝(ふり)もついにかなわず、討たれました。 それからはこの熊野の国には永く平和の日が続き、高倉(たかくら)下命(かめい)は朝廷からの信任も厚かったといいます。
救馬渓の岩屋