室蘭の病院は小高い場所にあった。

救急車などない100年ほどまえ(1916年)、 二人の水夫は交代で、足を負傷した若い船員を背中に背負って、その病院までの坂を登った。負傷した足が引きずられた跡を、雪の上に長々と残しながら。

 

黒いダイヤを世界に送り出す室蘭

「海に生くる人々」という小説は、室蘭から横浜へ石炭を運ぶ船と北海道に戻ってからの室蘭が主な舞台である。時は第1次世界大戦のまっただ中。船員の命よりも黒いダイヤのほうが大事という空気が世界を覆い尽くしていたのかもしれない。あまりにも壮絶で過酷な船上労働のリアルな描写は、100年後の読者をもその船上に引きずり込んでしまう。作者の葉山嘉樹が大学を中退して室蘭港から乗り込んだ石炭船の名が「万字丸」。そして、彼の小説の舞台となった船の名が「万寿丸」である。小説というフィクションの世界を借りているが、彼自身が海に生きた人々のなかの一人であったことは想像に難くない。

(写真はイメージです)

働く仲間と生きる

沈没するかもしれないという大時化の冬の海上で作業中に重症を負い、立ち上がることの出来なくなった若い船員は、横浜に入港したあとも暗い船倉に放置される。船長は家族に会いに帰るのに忙しかったのだ。痛みに耐えて脂汗を流しながら一週間後、室蘭の病院に行けると希望を抱いていたが、自分の怪我は忘れ去られ、船長が登別の愛人に会いに行ったと聞いて悲嘆にくれる。みかねた水夫達が、なけなしの給金のなかから病院代を出し合って、力自慢の二人が怪我人を背負って冬の凍った坂道を病院まで登ったのである。

治療を終えての帰り道でさえ、真冬に汗が滴り落ちるほどの重労働であった。そんな彼らの心と身体の飢えを満たしてくれたのは、横浜や神戸の菓子屋に勝るとも劣らない美味と名高い、東洋軒の甘菓子なのであった。汗だくの屈強な水夫がふたりと、脚の包帯を血で赤くそめている若者が、菓子屋で和む姿を100年前の著者でさえ「珍無類」とおもしろい表現で描写している。

文学碑 葉山嘉樹「海に生くる人々」(写真撮影yumi


1日に14時間以上も、作業服を凍らせながら働いても、繁忙期には週に一度の休日すら無視される環境をなんとかしようと、馘首を覚悟で船長に談判を挑む。「そんなに待遇改善してほしければ、自ら努力して士官にでも船長にでも昇進すればいいじゃないか」と諭す船長に対する主人公の答えがふるっている。

「水夫をやる人間もいなくなったら困るんじゃないかと思いましてね」

問答無用と出港作業にもどるよう一喝する船長に対して、怒りを爆発させてしまった主人公は。。。。。

 

 

葉山と室蘭の寒さを今に受け止める

100年後の現在、ブラック企業と呼ばれる場所ですら万寿丸の数倍もましな環境であろう。それでさえ、いわゆる肉体労働の現場には人手不足が深刻と言われる。昇進しろという船長の理屈ももっともに聞こえる。しかし、屁理屈に聞こえた主人公の言葉のほうが未来を見通していたようにも思える。

脚を負傷した船員は無事に室蘭の病院で手当を受けるのだが、手術後、冬でなければ脚は腐っていただろうと医者に言われる。つらく冷たい雪と氷が彼の脚を救っていたのだ。

 

『海に生くる人々』岩波文庫、岩波書店 1950(昭和25)年8月10日第1刷発行

 


30年後、いまから70年前に室蘭出身の作家、八木義徳が第19回の芥川賞を受賞することになるが、その八木の父がこの小説の当時、町立病院の院長であったという。葉山の仲間の脚を治したその人が八木の父だったのかもしれない。

(2015. 4.16 Yasushi Honda)



ネットで読む

「海に生くる人々」全文(青空文庫)

 

「海に生くる人々」縁の地を訊ねる

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散策して、お昼ご飯のときは

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