歴史文化遺産の保存活動 景観観察ウォーキング 実績報告書 平成28年1月20日 NPO法人 ひらかた環境ネットワーク会議 まちづくり部会 1.企画の目的 (1).枚方市の歴史 枚方市は、京都・奈良・大阪の中間に位置し、難波・飛鳥・平安の古代から中世にかけて交通の要所として、また、大陸との入口として数多くの文化遺産を残しています。 しかし、戦国時代には、その立地から常に戦場となりその多くの文化遺産が焼失されました。 安土桃山時代から江戸時代に入って、世情が安定するに至って、多くの街道が交錯し、街道筋の宿場・社寺を中心に多くの街並みが誕生しました。 第二次世界大戦では、京都・奈良に近かったことから幸いにして空爆の対象から外され、江戸末期から明治・大正・昭和にかけての街並みの多くは残されました。 (2).企画の目的 枚方市は、戦後大阪の後背地として住宅開発が進んで今や40万人の中核都市へと発展してきました。 現在は、古くからの住民の方の努力によって、歴史的建造物の保存が辛うじて保たれてきましたが、周辺地域から開発が進行してきています。 したがって、枚方市の歴史的文化遺産である古民家といにしえの文化遺産との共存を新住民共々と考えるために、まずはその存在を知って頂くきっかけとしてこの企画をしました。 2.本年度の実施結果 ...
NPO法人 ひらかた環境ネットワーク会議 景観観察ウォーキング 実績報告書(2015年度)
ここでは、七夕伝説 について紹介します。 ①.難波氏の資料より 約三千年前、中国の「詩経」という詩の本のなかに牽牛・織女のことが取りあげられているのが最初と云われている。 織女(織姫、七夕津女とも)天の川の東に機(はた)を織る織女が孤独なのを天帝が憐れみ、西側の牽牛(けんぎゅう彦星とも)に嫁がせたが機織りを怠るので、仕方なく1年に一度(旧暦7月7日)だけ逢瀬を許した。織女が天の川を渡る際、鵲が羽根を広げて橋になるという。との中国の伝説が渡来人たちによって七夕祭りとして定着した。 万葉集には七夕に関わる歌が130首収められており既に万葉の時代に定着していたことが分かる。香里団地観音山公園に山上憶良(ヤマノウエノオクラ万葉歌人)作の歌碑が建てられている。 日本で七夕行事が始まったのは、7世紀頃、大陸からの渡来人が織物技術の上達を願って乞巧奠(キッコウデン=物を供えて祭る七夕行事)という形で行われていた。日本書記によれば、持統天皇(女帝)が691年7月7日に宮中で公卿を招いて宴を催したとあり、これが七夕行事の始まりではと云われている。 ②.インターネット 七夕伝説より 織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出、牽六朝・梁代の殷芸(インウン)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」 古くは、「七夕」を「棚機(タナバタ)」や棚幡と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。 元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(タナバタツメ)の伝説と合わさって生まれた言葉である ③.御殿山神社 発行 「枚方物語」より 天の川の東の宮殿に一人美しい娘が住んでいました。 天帝(天をつかさどる神)の子ですが、父の言いつけで、あけてもくれても機を織っていました。それで名前を織女といいます。 織女の織る布は、雲錦といって雲か霞のようにうすく、紫色の錦でした。また、その糸をはく蚕は天上に生えている扶桑という木の葉でかったもので、紡いだ糸は、天の川ですすいだものだと云われています。 ...
七夕伝説
ここでは、三川合流 について紹介します。 在所:宇治川・桂川・木津川合流点 【ポイント】 ①.三川とは、宇治川、桂川・木津川のこと。 ②.昔は、淀城の下流にあった巨椋池の端に一気に流れ込み洪水の原因となった。 ③.最初に治水対策対策を実施したのは、豊臣秀吉である。 ④.明治元年の大洪水で最初に木津川の付け替えが行われた。 ⑤.明治18年の大洪水を経て、明治43年三川の合流点を川下に移動。 ※その後も現在に至るまで改修は続けられている。 ⑥.宇治川・木津川の間の背割堤防は桜の名所。 【関連写真】 【補足説明】 ①.2016年04月07日産経新聞 桂川・宇治川・木津川が並流した後、やがて交わって淀川となることを云う。 明治18年の大洪水きっかけに明治29年、河川法が制定され、官民あげての淀川改良工事が行われた。 新淀川が開削され、瀬田川(南郷)洗堰や毛馬洗堰、こう門ができ、三川合流域も宇治川を巨椋池から完全に分離させ、桂川と宇治川の間に背割堤を設けるなど合流域を西に移した。 大正6年に大塚切れが発生し、合流域の再改良に乗り出し、桂川の河道を北側に広げ、三川間に2本の背割堤を再築造して並流域を以前より下流にのばして逆流を防ぎ安定性を向上させた。 ...
三川合流
ここでは、三社託宣信仰 について紹介します。 在所:各神社 【ポイント】 ①.三社託宣とは、天照皇大神宮・八幡大菩薩・春日大明神それぞれの“お告げ”(託宣)・三神の神像・託宣の文章を記した掛物を指す。 【補足説明】 ①.世界大百科事典第2版より一部抜粋 三社託宣とは、伊勢神宮(天照皇大神宮;天皇家の皇祖神)・石清水八幡宮(八幡大菩薩;武家の祖神)・春日大社(春日大明神;公家の祖神)の三社の託宣、神の“お告げを記したもの。これを信仰の対象とするのが託宣信仰で、室町中期頃からはじまったという。 中央に天照大神宮、右に八幡大菩薩、左に春日大明神と記し、その下に託宣を載せて一軸の掛軸に仕立てたものが床の間に飾られ、信仰の対象とされた。 前記三社は、それぞれ“正直”・“清浄”、“慈悲観”を強調している。 中世神道思想の考え方は、神道・儒教・仏教の三教融合の思想にこれに由来し、現在も正月の初参りでは、三社参りが民衆の習慣となっている。 ・天照大神:謀計は眼前の利潤たりといえども、必ず神明の罰に当たる。正直は一旦の依怙(エコ)に非ずといえども、ついには日月の憐れみを蒙る。 ・八幡大神:鉄丸を食すといえども、心汚れたる人の物を受けず、銅焔(ドウエン)に座すと いえども、心穢れたる人の処に至らず。 ・春日大神:千日の注連(シメ)を曳くといえども、邪見の家には到らず、重服深厚たりといえども、慈悲の室(イエ)におもむくべし。
三社託宣信仰