ことぶきから古沢小学校までの不動谷川の流れ
九度山の町の名の由来 について知っていることをぜひ教えてください 色々あるが、1.一番有名なのは母思いの空海が山麓の高野山政所へ母を訪ね月九回下山したという伝承だ。しかしその頃は平安時代の862年頃であるが江戸時代中期には久戸山と町史に記載あるため度という数値を表す文字に変わったのは江戸時代後期の高野山真言宗の創作と思われるので平安時代に考案された地名ではない。 次は2.6世紀頃最新文化の取得言語であった朝鮮語の靴という言葉(百済語ですが)(現在の韓国語は新羅語ベースでシンと発音)クドと言います。これは慈尊院方面から見た現在のまちなか地区が靴の形をしているから、そしてサンは丘の上に墓があった。 ちなみに裸足という日本語は 肌シン(肌の靴)という新羅語由来 んは日本に来て消滅した。靴は百済語由来でkuduから類推できる。 サン=墓 だからクドサンと呼ばれ江戸時代は久戸山と九度山町史にも記録されている。それが九度山(くどさん)になり現在ではくどやまと発音する。 付則だが昨年〈2016年)は真田丸で幸村の名がくどやま村の村から取ったというNHKの新説も登場した。 仏教陰陽道的に考察すると、▼この地区の文化の中心である慈尊院から見てくどやまは く=近くないけど遠くない距離をさす百済語で どは元来 と で兎 すなわち慈尊院から見て東の方向にある さん(墓)という意味にも考えられるし、渡し場の事を と ...
九度山の町の名の由来
一般に大学のサテライトキャンパスは利便性の高い都市部に設けられるようですね。そこで社会人向け等々の講義が行われるようです。 最近の大学は地元に密着した活動が多いようですので、そこを利用して和歌山大学のサテライトキャンパスを誘致してしまいましょう。 古くからの歴史ある町です。ここを地元の歴史学の拠点とすることで、実際の史跡に触れながら学習できるというメリットがあります。高野山だけでなく、陸奥宗光、真田幸村、大石順教尼、松山常次郎… 等々、一つの時代に縛られることなく、様々な時代のことに触れることができます。また、なによりも縄文・弥生時代から綿々と紡がれてきた庶民の生活がここにはあります。 実学の場というのは貴重です。せっかく町民憲章にも「教養を深め、文化の香り高いまちをつくります。」とあります。史跡に触れつつ学習できる場として九度山を教育の拠点にしていきましょう。 サテライトキャンパスの場所ですが、残念ながら九度山にはたくさん空き家がありますので、それをゼミ室にしてしまうと、古い町屋で勉強できます。楽しいです。 他にも色々アイデアがあると思います。本当にサテライトキャンパスが誘致できるよう、皆さん思いついたことを色々書き込んでみてください。 この町について驚いたことは、単なる人口4500人の和歌山の田舎町に日本国の歴史に大きく係わった方々が3人もいたということだ。一人目は随分昔だが丹生都比売神社の祭神 あの天照大神の妹 わかひるめのみこと 神話ではそういう名前。大陸より入郷へ上陸し稲作を教えたといわれる人。二人目はもちろん真田幸村。天下の徳川と対峙し戦国の世に散った武将。三人目は陸奥宗光 伊藤博文政権で外務大臣を務め三国干渉を臥薪嘗胆に日本を帝国主義へとリードした人。いずれも日本の歴史に大きな影響をもたらした人達がここにいたということはサテライトキャンパスを誘致するに十分な素材だと思う。昔を知ることは未来を見渡せる素養を養えるということです。
九度山に和歌山大学のサテライトを
山(木)を育てるには、多くの工程が必要です。日本の林業の発展を願い、吉野林業を理解してもらうために、土倉庄三郎氏が校閲した「挿画吉野林業全書」が明治31年に出版されます。絵図入りで非常に判りやすく吉野林業の全工程が解説されています。想像ですが、明治19年頃の高野官林立木払下に関与していた土倉氏は、この吉野林業全書に書かれている林業法の実験(実践)を、高野山で行っていたのではないでしょうか。山(木)を育てる工程を理解し、その中で高野山森林鉄道がどのような役割を果たしたのかを考える一助に、簡単に解説したいと思います。 ・伐採計画/立木調査 官林では、施業案編成にあたります。樹種・樹齢・量を地図にします。そして、どの順番で伐採していくのがよいか計画し、その計画を達成するために必要な「林道」や「土場」の整備を行い、伐採後の植樹まで計画します。施業案は10年単位で見直されますが、植林後50年程度たたないと、木は育たないので、その間、いかに手入れを行うか、間伐材を利用し収入を得るか、などなどの長期計画を作成します。 ・伐木/造材 伐木は、立木を切り倒すこと。伐採。造材は、搬出に便利なサイズに伐木現場で成型すること。 ・集材 伐採した木、造材した木を、搬出するために集めること。集材と運材の境界はあいまいです。 ・運材 集材した木を貯木場まで運ぶこと。様々な運材方法があります。 背負い出し、肩上げ曳、曳き出し 橇ソリ、地車、荷車 修羅だし さで、木馬道、軌道・鉄道 野猿、索道 トラック輸送 ・造林(植林) 通常は、伐採の2年後に植林が行われます。 ・育苗 ...
木材運搬
杉や檜は高級木材として、明治、大正の経済を支えた。 現在は前後植えられた木が林齢を60〜70年で極端にその利用を得られず放置に近い状態で立っている。 植林され、杉だけの山では鳥の声がしない。果物のなる木がない。下草が少ない。虫が飛ばない。 台風で倒れた杉の林の斜面は次の雨のとき、土砂崩れをおこさのだろうか。 九度山とかつらぎ、橋本、高野山で、山林はどのくらいあって、杉や檜はどのくらいを占めているのだろう。 杉を材木として販売することはできるだろうか。 杉で家具をつくることは? 割り箸や薪にすることは? 九度山にもう杉山はいらん? について知っていることをぜひ教えてください 20年くらい前、丹生川の杉山の斜面を、杉の木をヘリコプターで何往復もして運び出していた光景をみたことがある。あの頃で、1時間30万円くらいヘリコプター飛ばすのにかかっていた記憶。どこかで立派な屋敷になっているかもしれない。 今年(2019年)、槙尾道をトレッキングで歩いたルートに、薪を作っている場所があった。白藤小学校の近くです。杉の木かどうかは定かではないけど、木を生活の糧にしている方が存在する。 あと、金剛峯寺の貯木場もちらっと見た。あれはすごい。詳しく見学したい。
九度山にもう杉山はいらん?
九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。 以下、平成12年9月号の記事です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「左真田幸村公旧蹟 右高野山」と文字を刻んだ石の道しるべ(道標)を見た人もあると思いますが、こんな道標が九度山町内では数多く残されています。特に、人里離れた山中では、今でも昔のままの場所で山を歩く人々に道案内をしてくれます。 町内の古道 九度山町内で古道としてよく知られている道には、慈尊院から高野山への町石道、学文路から繁野・河根峠・河根・神谷から不動坂を登り高野山へ通じる東高野街道(九度山から椎出・長坂を通り神谷で合流する道もある)や橋本から清水・国城山の東を通り、市平・美砂子・久保・黒河・平を登り楊柳山・子継峠を経て千手院谷への黒河街道の三街道があります。 これらはいずれの街道も高野山への登山道で“高野街道七口”の内の三口です。 町石道 この道は一番早く開かれた道で、花こう岩の高卒塔婆(五輪塔)が立てられ、これらほとんどの石は鎌倉時代のもので、国の史跡に指定されています。 卒塔婆は、もちろん信仰上のものですが、一町(約109m)ごとに立ち、町数が刻まれ道標の役目も兼ねています。この他里石も三十六町ごとに立てられ、一里が三十六町であることを表しています。 この道には町石や里石だけでなく、雨引山の手前に「右かうや三リあまの明神 左こさわ一リかうやちか道」と自然石に天野・高野山への道のりを教えてくれる道標もあります。 この町石道には、寛延2年(1749)7月1日に関東巡礼千五、六百人程が通った、という記録(中橋家文書日次記)が残されており、多くの人々が行き交ったことがうかがわれます。また、高野山奥之院の古い石塔もほとんどこの道を運び上げられたものと思われます。 東高野街道(不動坂口) 学文路駅下の宝暦8年(1758)建立「右慈尊院みち是より一里 左ハ高野みち女人堂迄三里」(最近、享保6年の道標が発見され、近くに立てられている)から河根峠に「高野山女人堂迄八十町」「右大阪みち 左まきのおみち」が、また河根に「高野山女人堂迄七十五町」、千石橋北詰に安政四年(一八五七)建立の「高野山女人堂江二里」の道標があります。 ...
2000年09月号 古道と道しるべ
(1)古沢紙【高野紙】 建長5年(1253年)に木版で刷られたものが高野山に現存。当時、高野山内では出版が盛んで、写経・書籍・儀式用などに古沢紙【高野紙】が使われたようです。 古沢紙【高野紙】は、高野山の麓で漉かれ、その産地を総称して「高野十郷」と呼ばれていました。 高野十郷とは・・・笠木、上古沢、中古沢、下古沢、椎出、河根、東郷、西郷、東細川、西細川の十郷 上古沢厳島神社では「紙漉きえびす講」が結成され、高野十郷の各郷から村役人が二人ずつ出て、毎年1月10日と10月10日の二回会合を開き、えびす神を祀って紙漉き繁盛を祈ったり、紙漉きの技を他村の者に伝えないという定めを固く守っていたなどと伝わっています。 ちなみに、毎年10月の体育の日に上古沢厳島神社で執り行われる神事「えびすのお渡り」は、「紙漉きえびす講」の名残とも言われています。 古沢紙【高野紙】は、番傘用として明治時代に最盛期を迎え、下古沢では100軒が紙漉きを行っていました。昭和10年(1935年)には障子紙用の大判も生産されましたが、南海電鉄の開通で出稼ぎが多くなり、昭和15年(1940年)には下古沢53軒・椎出16軒に減少してしまいました。さらに昭和30年代に下古沢で1軒を残すのみとなりました。 紙漉きは、農閑期(寒の入りから八十八夜まで)の副業として地域住民の生活を支えてきたものなので、南海電鉄開通に伴いより収入の高い出稼ぎが可能となったことが原因で衰退してしまったのでしょうね... (2)高野山への道 九度山町には、高野山へ通じる7路線=高野七口のうち3路線が通っています。 ◇高野山町石道:慈尊院⇒矢立⇒大門 ◇京大坂道(東高野街道):橋本⇒清水⇒学文路⇒繁野⇒河根⇒作水⇒神谷⇒不動坂⇒女人堂 ◇黒河道:橋本⇒清水⇒国城山⇒市平⇒久保⇒黒河⇒高野山 当初、椎出は高野山への通り道ではありませんでした。 時代は下り、慶長年間(1596年~1615年)に入ると、紀の川の水運が盛んになり、舟戸の浜が賑わいをみせます。 この舟戸を起点に、次第に九度山⇒古曽部⇒椎出⇒神谷⇒不動坂⇒女人堂を経由する道が使われるようになってきます。 享保10年(1725年)、東山から梨の木峠を越えて椎出に至る道が開かれます。 明治に入り、雨の森の道が木馬道としてスタート、明治12年(1879年)に営林署が置かれます。 ...
椎出地区の変遷
高野山森林鉄道の事を調べるために、国立公文書館蔵書資料検索をしていたところ、「高野電気鉄道」が高野口駅から入郷経由で椎出字滝垣内に至る鉄道敷設免許を申請し却下された史料が出てきました。もし許可されていれば不動谷川右岸の「高野下駅」の隣にもう一つ駅が出来ていたことになります。更に、高野登山鋼索鉄道が、不動谷川左岸に駅を作ろうとしていました。高野索道の椎出駅を入れるとなんと4駅目です。 これをきっかけに、今では高野山に向かう線路は南海高野線只一つですが、これまでに、いったいどのような路線が計画されたのか、そもそも南海高野線はどのような経緯で今の姿になったのかが気にかかり調べてみました。すると、南海高野線の会社名の変遷だけでも、数え方にもよりますが、8つも会社名が挙がります。驚きの「高野山を目指した鉄道たち」をごく簡単に紐解きたいと思います。 南海高野線の社名の歴史 明治26年 ①堺橋鉄道㈱設立 堺東から橋本を目指します 明治29年 ②高野鉄道㈱に社名変更 明治40年 ③高野登山鉄道㈱設立 高野鉄道の業務譲渡 明治45年 電車併用運転開始 大正04年 ④大阪高野鉄道㈱に改称 汐見橋-橋本間全通の為 大正06年 大阪高野鉄道が⑤高野大師鉄道㈱設立 ...
高野山を目指した鉄道たち
そう感じるイベントを紹介。 平成30年10月に開催した「まちなかマルシェ」です。 では、「まちなかマルシェ」ではどうしたのか? お店が少なくなり、さびれてきた商店街にもう一度賑わいを取り戻したいという住民の熱い想い、これが原点です。 第一歩として、空き家・空き地を活用することはできないか。 活用することで、家主さんの貸出へのハードルが下がり、出店者には、またここでお店を開きたいと思っていただけないか。 このイベントで、空き家・空き地の利活用に拍車がかかれば! と考え、住民が動きます。 まず、空き家・空き地の調整を普段から付き合いのある住民が行います。 さらに、来てほしい出店者の調整も住民が行います。 でも、これだけでイベントは開催できません。 ここで役場が登場します。 役場は、開催に必要な手続きを行います。手続きとは・・・ ⬛️飲食店舗の出店に必要な保健所手続き「食品営業類似行為」「イベント等開設届」 ⬛️飲食店の出店で火気類を使用するための消防署手続き「露店等の開設届」 です。 「まちなかマルシェ」開催に向け、お膳立ては住民がし、そしてややこしい手続きは役場がしました。 このような住民主導によるイベントを実施する“手助け”が役場の役目であり、本来の地方自治であると感じました。
ややこしい手続きは役場がやればいい!!
杉山をテーマパークに変えよう! について知っていることをぜひ教えてください みんなで集まって杉山をどうするか、色々話をしてみました。 今、杉林は作業道があるところしか利用価値がないそうです。 恐らくですが、材としての価値が安いため、大量に出さないとコスト的に合わないからそんなことになるのではないかと考えました。 では、出荷する材に付加価値をつけることで多少不便でも杉を出荷できるのではないかな。と考えました。 商品としての付加価値、ストーリー、例えばですが、害獣扱いされているイノシシ、鹿の餌となるドングリがたくさんある雑木林に植え替えるとか。 また、最初は大量でなくても森林再生ボランティアを募って、1本からでも運び出してできないかとの意見も出ました。 他にも、雑木林だけではなく、蝋梅を植える、桜を植える等々、好きなものを植えてもいいのでは、との話から、みんなが楽しめるテーマパークにしては。 ツリーハウスを作りたい。 それぞれの人が記念植樹的に好きな木を植えてもいいのでは。 みんなで遊ぶ場所にしては 等々。 以前教育長が、森の童話館の周辺でカブトムシを取りに行く体験イベントを思いついたようです。ところが、あれだけの人工林では全然カブトムシがいないのではないか…と思い、確認に行ったところ、案の定だったそうです。 カブトムシがいる林作り。これもテーマパークとして、子供たちが楽しめる場所になりそうですね。
杉山をテーマパークに変えよう!
九度山町では以前、町史を編さんするにあたって町史編纂室が存在し、冊子を上梓するまでほぼ毎月、「広報くどやま」に「町史編さんだより」を掲載していました。その内容を転載します。 以下、平成8年7月号の記事です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 400年昔の丹生川村 豊臣秀吉は天正13年(1585)大軍を率いて紀伊国に侵攻、根来寺・粉河寺を焼き払い、さらに高野寺領十七万石の土地を全部没収し短時日で紀州を平定しました。その後秀吉は高野寺領の復活を許し紀の川の南岸、那賀・伊都両郡で二万一千石の土地が寺領となりました。 けれども、丹生川村だけは、周辺の寺領の村に囲まれた紀伊藩領の村に生まれかわりました。 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康の武将浅野幸長が慶長5年(1600)紀伊国大名として入国、直ちに検地に着手、丹生川村の石高(生産高)は九十八石余りと算出され、この時丹生川村の飛地、小字「滝の亦」も寺領から藩領に編入され、そのため300年間の境界争いの原因となりました。 元和5年(1619)徳川頼宣が紀伊藩に入国するまでの約19年間が浅野大名時代です。この変動の時に丹生川村の氏神丹生大明神の修理・正遷宮が行われたのです。 丹生大明神社の修理 慶長9年(1604)から勧進をはじめ、社の屋根の葺替作業に着手しました。 高野山の十八寺院から、 米 一石九斗 酒樽 一つ 銀子 一貫文余(当時は中国から輸入の明銭) が寄進されています。 ...
1996年07月号 豪華 能舞奉納 丹生川村 丹生大明神 正遷宮