三つ鱗(みつうろこ)は、(鎌倉)北条氏の家紋として知られる、三つの鱗(三角形)を全体として1つの鱗様に配した紋。『太平記』に、北条時政が榎嶋(江の島)に参籠したとき、弁財天の化身の大蛇が現われて鱗を三つ落して去ったことから、旗印にしたとの由縁がみえる。(1)(4)
後北条氏(小田原北条氏)が家紋とした由縁として、6巻本『北条記』に、大永2年(1522)頃、北条氏綱が浜町・蓮上院の差配で小田原城に江の島弁財天を勧請して城の鎮守としたことがみえるが(3)、鎌倉北条氏の家紋を踏襲したという見方もあり(1)、使い始めた時期などは未詳である。
寺紋にしている寺院
2019年時点で、小田原市内には、三つ鱗を寺紋にしている寺院が少なくとも22ある。以下は、宗派によるおおまかな分類。(2)
臨済宗建長寺派
臨済宗建長寺派の寺院のうち、曽我谷津の法輪寺、田島の玉泉寺と一徳寺(2)。
(鎌倉)北条氏の庇護を受けた本寺・鎌倉・建長寺の寺紋(1)に由来すると思われ、『風土記稿』にみえる各寺院の創建時期も14世紀まで遡る(2)。
早雲寺の末寺(臨済宗大徳寺派)
箱根湯本・早雲寺の末寺だった臨済宗大徳寺派の寺院。風祭の宝泉寺、城山の願修寺、中町の伝心庵、東町の昌福院と呑海寺(2)。
本寺・早雲寺の寺紋に由来すると思われ、『風土記稿』にみえる創建時期は、不詳もあるが、おおむね16世紀以降。江戸時代に早雲寺の末寺となった寺院も含まれている(8)。
宝泉寺の本堂・山門と昌福院の本堂屋根主棟には「丸に三つ鱗」も用いられており、昌福院の山門の内側には「丸に立ち沢潟」が使用されている(2)。
東寺真言宗の寺院
東寺真言宗の寺院のうち、浜町・蓮上院、本町・西光院、飯田岡・福田寺および下大井・保安寺の別院。また中里・満福寺の山門の寺紋は「鱗に東寺雲」である(後出)(2)。
浜町・蓮上院は往古から小田原城主の庇護を受けており、大久保藤も寺紋にしている(7)。本町・西光院はその末寺で、松原神社の別当寺だった。その他の寺院は所縁不詳。
香林寺とその末寺(曹洞宗)
板橋・香林寺と、その末寺だった板橋地蔵尊および板橋・宗久寺(2)。
香林寺の延宝6年(1678)の寺伝によると、(中興)開山の大樹乗慶が鎌倉北条氏の後裔で、また北条氏綱の室・養珠院の菩提を弔うために堂宇が建造されたとのこと(5)。境内には弁財天も祀られている(2)。ただし、2002年(平成14)の葺替以前の山門屋根には、もう1つ別の寺紋が使用されていたようである(6)。
瑞渓院ゆかりの寺(曹洞宗)
北条氏康の室・瑞渓院ゆかりの栢山・善栄寺と板橋・興徳寺(2)。
浄土宗の寺院
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鱗は正三角形か二等辺三角形か
北条氏の家紋の鱗の形は正三角形か横長の二等辺三角形か、という問題について、鎌倉建長寺や円覚寺は横長の二等辺三角形と回答しており、また狭山北条氏は横長の二等辺三角形を用いている由であるが(1)、寺紋の実例では、丸で囲ったときに縁の輪と接点を持つようにするという意匠上の都合を優先して、正三角形様にしていることもあると思われる(2)。
丸に三つ鱗
丸に三つ鱗は、三つ鱗を丸で囲った紋で、久野・京福寺(曹洞宗)、浜町の誓願寺(浄土宗)の寺紋に用いられている(2)。
また前出の風祭・宝泉寺の本堂・山門や東町・昌福院の本堂屋根にも使用されている(2)。
宗派・本末とは無関係らしく、京福寺や宝泉寺は久野北条氏の家紋かとも思うが、所縁は不詳。丸が無い紋と弁別されているのかもよくわからない。
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鱗に東寺雲
鱗に東寺雲は、中里・満福寺(東寺真言宗)の山門にみえる寺紋で、三つ鱗の中央に東寺雲を配して全体が1つの鱗にみえるデザインとなっている(2)。
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参考資料
- 和田登・岡部忠夫「北条氏の三つ鱗紋」『小田原史談』No.135、1989年1月、p.1
- 2019年調査
- 巻2(14)「浅草沙汰之事」萩原龍夫(校注)6巻本『北条記』『北条史料集』〈戦国史料叢書 第2期 第1〉新人物往来社、1966、pp.54-55
- 巻5(5)「時政参籠榎嶋事」『太平記』国立公文書館内閣文庫 請求番号 特028-0006 第4冊 コマ9
- 『風土記稿』板橋村 香林寺
- 板橋地蔵堂トップ > 板橋地蔵堂便り > 香林寺の山門の屋根替えをしています、2017年5月27日、arc.
- 『風土記稿』小田原 大工町 蓮上院
- 岩崎正純「江戸時代の早雲寺 その断絶と再建過程」『三浦古文化』No.17、1975年5月、pp.27-42