2015年12月、400年前から受け継がれてきた持続可能な梅を中心とする農業システムが世界農業遺産に認定された。 みなべ・田辺地域では薪炭林を残しつつ、山の斜面に梅林を配置することで、水源涵養や崩落防止などの機能を持たせながら高品質な梅が生産されていること、梅の花の受粉における二ホンミツバチの利用や里山・里地の自然環境の保全により、豊かな生物多様性を維持していることなどが高く評価された。以下の3つが大きなポイントとなる。 ・薪炭林の持続的森林管理 紀州備長炭の原材料のウバメガシやカシを択伐という適する太さの幹や成長の妨げとなる幹だけを切り、細い幹は残すことで木を早く再生させるという方法で持続的な森林管理を行っている。 また択伐によって急な斜面から起こる土砂崩れなどの山荒れを防いでいる。 択伐のようす薪炭林のようす ・ミツバチと梅の共生 梅の多くの品種が自家受粉ができない。そのため他種の梅を近くに植えて、その花粉で受粉・結実させなければならない。 薪炭林に生息するミツバチが梅の受粉のお手伝いを行っている。梅は早春に貴重な栄養分をミツバチに与えている。 ・急峻な斜面の利用 梅林では、草をはやして土壌の乾燥と流出を防止している。刈った草は梅の肥料として利用している。 <世界農業遺産とは> 世界農業遺産は、世界的に重要かつ伝統的な農林水産業を営む地域(農林水産業システム)を、国際連合食糧農業機関(FAO)が認定する制度です。〜農林水産省より〜 <認定基準> ①食料及び生計の保障 ②農業生物多様性 ③地域の伝統的な知識システム ④文化、価値観及び社会組織 ...
世界遺産に認定された「みなべ・田辺梅システム」
南部川
梅には体にいいさまざまな成分が豊富に含まれています。 例えば、疲労回復などに有効なクエン酸、リンゴ酸、コハク酸、酒石酸、その他各種有機酸などです。 また、梅の栄養価値は果物の中でも特に優れており、たんぱく質やビタミン、カルシウム、カリウム、リン、鉄などのミネラルも豊富に含まれています。 🌸骨や血液など人間の体を形成するものの中にはカルシウムやリン、鉄分など鉱物性の栄養素は含まれており、これらのミネラルが不足すると病気を引き起こしてしまいます。 実の小さい梅ですが、リンゴの4倍のカルシウム、リンゴの6倍もの鉄が含まれているのです。 🌸梅の酸味成分であるクエン酸は、唾液の分泌を促進して食欲を増進させる働きがあります。またそれだけでなく、胃液など消化酵素の分泌まで高めて消化吸収を手助けしてくれます。 梅には様々な身体によい効能が沢山ある。 〇疲労回復効果、老廃物がたまるのを抑える エネルギー代謝がうまくいかないと栄養素の不完全燃焼が起こり、疲れや肩こりを感じるようになる。梅の酸味成分であるクエン酸やリンゴ酸などの有機酸は、糖質の代謝を促し、活性化させる働きがある。これにより、栄養素をエネルギーに変換する働きがスムーズになる。 〇唾液の分泌を促進させて食欲増進 梅の酸味成分であるクエン酸は唾液の分泌を促して食欲を増進させる。それだけでなく、胃液やその他の消化酵素の分泌を高め、消化吸収を助ける。 〇カルシウムや鉄の吸収を促す 梅が持つクエン酸などの有機酸には吸収率の低いカルシウムや鉄の吸収を促しカルシウムが骨から持ち出されるのを防ぐなどの働きがある。 〇肝機能を強化し血流を改善 血液がサラサラに。血栓・動脈硬化などの予防にも 梅干しが持つピルビン酸には肝機能の強化に有効となっている。 さらに、ジャムや梅肉エキスなどの梅を加熱した製品では、梅に含まれる糖とクエン酸が結合しムメフラールという成分が作られる。 ムメフラールは血流を改善し血栓予防、動脈硬化などの生活習慣病の予防に役立つとされている。また、血液中にコレステロールがたまるのを抑え、酸素や栄養分の供給がスムーズになることで老廃物の排出を促進し疲労回復も期待できる。新陳代謝が活発になるので老化を抑えることもできる。 ...
梅の効能
うめの流通には一般の青果物と同じ様に青うめとして卸売市場へ出荷されるルートと、梅干しなどは加工業者が原料として購入し多様な製品に加工した形で消費者に提供するルートがあります。 今回は梅干しなどの加工されるルートを紹介します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 梅の収穫後は ①サイズ選別・箱詰め作業に入ります。 ↓この選別基準に従い、すべて手作業で1つずつ仕分けします。 何トンもある梅を1つ1つ選別するのは梅農家さんにしか出来ない職人技だと思います。この選別された梅はバケツに仕分けられるのですが、バケツに入れる際も気を遣い、円を描く様に梅同士がこすり合って皮が破れない様に工夫されています。 ②仲買(水洗い・塩漬け・士用干 たるづめ) ↓塩漬け後欲している様子 この画像に写っているだけでもまだ約5分の1程で量です。(もっとあるかも) ③ここからは梅加工業者によって作業が行われます。 水洗い→品質選別→脱塩→味付け/白梅干→容器詰め/計量→梱包 ➡︎ 発送 ④この後は卸問屋・通販業者・スーパーデパート小売店などへ発送され、 「消費者」の元へ届けられる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ...
梅の収穫後の流れ
梅干しの歴史 梅干しは古来より人々とともにあり、人々の生活を支えてきた。 古代・・・梅自体は元は中国が原産。漢方薬として日本に持ち込まれ、伝えられる。 奈良時代・・・梅は木の実・果物に分類されており、桃やびわ、なしなどとともに梅を生菓子として食していた。クエン酸を主成分とする梅酢は人体の傷口の消毒の他、青銅器・鉄器の酸化防止のためにも用いられた。東大寺の大仏に金を鍍金する際にも使われたという。 平安時代・・・梅干しという名前が使われ始めたのが平安時代。日本最古の医学書「医心方」に梅干しの効能が取り上げられている。 鎌倉時代・・・この時代のごちそうとは「椀飯(おうばん)」※(おうばんぶるまいの語源)と呼ばれるクラゲ・打ちアワビなどに梅干しや酢、塩が添えられたものだった。兵士の出陣や凱旋の時に縁起がいいものとしてもてなされていた。また禅宗の僧は茶菓子として梅干しを用いていた。 戦国時代・・・梅干しが保存食としてだけでなく、傷の消毒や戦場での食中毒、伝染病の予防にと武士たちは食料として梅干を常に携帯していたという。合戦中の休息に梅干しを見ることで唾液分泌を促進させ、脱水症状をを防ぐのにも使われた。梅干しが戦略物資の1つとなり、武将たちは梅の植林を奨励するほどとなった。 江戸時代・・・武士などの1部の人たちにしか食べられていなかった梅干しも江戸時代になると庶民の家庭にも登場するようになった。江戸では大晦日や節分の夜、梅干しに熱いお茶を注いだ「福茶」を飲み、正月には黒豆と梅干しのおせち「食い積み」を祝儀ものとして食べた。また、江戸時代の銀山は坑内に立ち込める鉱塵による粉塵公害が問題となった。備中国の医師が鉄の枠に梅干しを挟み薄絹を張った防毒マスクを発明し、梅干しの酸の効果で鉱塵を寄せ付けず効果が絶大だったという。 近代・・・明治11年、和歌山でコレラが流行し翌年にかけて1768人の死者を出すほどの被害となった。この時に梅干しの殺菌力が見直されて需要が急増した。長期の保存がきくことから、戦国時代と同じように兵士が梅干しを携行食糧として好んだ。故郷を偲ぶ味として多くの兵士に愛された。昭和期などは日の丸弁当として弁当の定番であった。日中戦争から太平洋戦争の時期には毎月1日と8日の興亜奉公日・大詔奉戴日に食べることを推奨していた。 現代・・・減塩調味を施した「調味梅干し」が主流となっている。各家庭で梅干しがつけられることは少なくなり、スーパーマーケットなどで簡単に手にはいるようになった。小さな子供でも食べやすいように鰹節やハチミツで味付けされているものも出てきた。 より詳しい歴史はこちら キャプションを追加
梅干しの歴史
みなべ川村の梅の起こり 紀州藩主、徳川頼宣のころ、南部の農民はあまり米が育たない田畑と重い年貢に苦しんでいた。 これを見たみなべ地方を治める「田辺藩主」安藤帯刀が以前からみなべにあった「やぶ梅」に注目し、米のできないやせ地や山の斜面に生命力のある梅を植えさせ年貢の軽減と農作物の育成に力を注ぐ。 いつしか南部周辺に「やぶ梅」の栽培が広がっていった。 紀州田辺印の梅干 「やぶ梅」は、果肉が薄く小粒だったが、農民の生活には大切な品であった。 果肉をこめかみに張り頭痛を治したり、握り飯に入れたり、その価値は大きいものだった。 やがて梅干は、江戸で人気が出るようになる。 そこで、南部梅の良品なものだけを選び、『紀州田辺産』の焼印を押した樽に詰め、 江戸へ送られ有名になった。 埴田梅林 江戸時代、南部の埴田村では梅畑が一面に広がり、花の咲く頃には梅の匂いが野山に広がっていた。 『紀伊名所図会』に紹介されるほど見事な埴田梅林は、明治初年には南部川西岸の井出川原片山の 片山梅林へと広がっていった。 しかし、明治15年頃から盛んになった生糸生産のため、 梅は桑の木に植え替えられるようになる。 埴田を追われた梅は、やがて晩稲・熊岡の地で南部梅林として蘇ることになった。 六太夫梅 ...
みなべ梅林誕生の歴史
梅についての雑学、豆知識を紹介します。 ♦︎豆知識① 朝、出かける前に梅干しを食べるとその日は災害を免れるという説がある。 昔、旅人がその土地特有の熱病や風土病にかからない様に梅干しを薬として携帯していたからです。梅に殺菌効果があることは学問的にも認められ、多くの人が体験しています。今でも旅館などで朝のお茶漬けに梅干しが出されるのはこの説が生きているからです。 ♦︎豆知識② 梅は梅干しにしても梅肉エキスにしても、煮ても焼いてもまだ酸っぱいことから頑固でなかなか変わらない性質、いい意味では頑張り屋さんのことを「梅根性」という。 また、「柿根性」とは渋柿は焼けばすぐに渋が取れ、干し柿にすると一晩で甘くなることから、いっけん頑固そうに見えても変わりやすい性質のことをいいます。 ♦︎豆知識③ 梅の種子の核を称して「天神さま」という。 天神さまとして祀られている菅原道眞が梅を愛していたことから俗信が生まれました。青梅や生梅の核にはアミグダリンとプルナシンという成分があり、砕けると酵素分解によって青酸ガスを生じます。食べると腹痛や中毒を起こす恐れがあり、「種子の中には天神さまがおられるので食べるっと罰が当たりますよ」と戒めた言葉なのです。 ♦︎豆知識④ 京都御所に「左近の桜」「右近の橘」が植えられていますが、この桜は元は梅だったと言われている。 村上天皇の時に、火災で梅の木が倒れ、紀貫之の娘の梅を献上させたところ娘が「天皇のご命令ですのでこの梅の木を差し上げます。しかしこの木に来る鶯に自分の宿はどうなったかと問われれば、どう答えたものでございましょう。」と梅との別れを歌にしました。この歌に心を打たれた天皇は、桜に植え替えたということです。 ♦︎豆知識⑤ 梅の木は成長は早いが大木にはならないことから、にわか仕込みで不確実な学問のことをいう。 また、楠の成長は遅いが大木になることから、少しずつ着実に積み重ねた学問のことを楠学問といいます。 ♦︎豆知識⑥ 現在の「お酢」ができるまでは、酸味と塩味で料理の味を引き立てる「梅酢」が調味料として使われていた。 ...
梅の豆知識!
2015年12月、400年前から受け継がれてきた持続可能な梅を中心とする農業システムとして世界農業遺産に認定されました (1)紀州備長炭の「薪炭林」で山を守る 昔から「薪炭林を残すため、山全体を梅林にしない」という習慣が守られており、紀州備長炭の原材料のウバメガシやカシを択伐することで、土砂崩れや山があれるのを防いでいます。 (2)ミツバチによる受粉で梅が育つ 梅の多くの品種は、自家受粉できないため、他種の梅を近くに植え、その花粉で受粉・結実させます。しかし、何百という木に手作業で行うのは困難なため、古くから受粉には日本ミツバチが利用されてきました。この需要と供給の共生関係が高く評価されています。 (3)梅の収穫・加工技術が高品質の南高梅を生む ほとんどの梅の生産農家が、収穫した梅を白干にする一次加工まで行います。そのため、南高梅は栽培の段階から良質の梅干しになるように育てられます。また、加工業者も南高梅の魅力や特徴を熟知しています。 (4)薪炭林から海辺まで多様な生態系を保つ 「持続可能な農業システム」により、土壌の崩落や流出が防がれ、総合的な自然環境が守られるため、多様な生き物の生態系が維持されています。
みなべ・田辺の梅システム
平成16年10月1日、南部町と南部川村が合併して誕生し、和歌山県のほぼ中央に位置する。 総面積は120.28平方キロメートルあり、その約68%の81.91平方キロメートルを林野面積が占める。また、農地の割合が比較的高く2割程度を占めている。 東西に流れる南部川流域には丘陵地が広がっており、低地あり、山間地域ありとバラエティに富んだ地勢。丘陵地には日本一のブランドを誇る「南高梅」の梅林が広がり、山間部は森林、渓谷などの自然資源に恵まれている。 ★実際少し高い位置からみなべ町を見渡すと神の島と言われる鹿島(かしま)と海が綺麗に見渡せて、そこ以外は梅林が一面に広がっています。春には梅の花が咲き広がり、とても綺麗だそうです。そして町中に梅の香りも広がってくるそうです。 ★梅の生産量日本一ということもあり、低地(町人が住居を持つ場所)には梅農家の①ビニールハウス②梅を干す専用の建物③住宅の3つが並んでいました。 ↓国民宿舎紀州路みなべの部屋からの景色(写真はないですが、うめ振興館の屋上からの景色が町を全体的に見渡しやすかったです。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・町の花:梅 日本一の生産量と品質を誇る「梅」はまさに町の基幹。早春の山野を白く彩るその花は、その清潔さと高い香りとともに町の花として最もふさわしいもの。 ・町の木:うばめがし 日本有数の生産量と質を誇る紀州備長炭。うばめがしは、古くからその最高級の原木として大切に育てられ、そのことがみなべの山林を守ることにつながってきた。 ・町の鳥:うぐいす 春になると、みなべの山々から、うぐいすの声が聞こえてくる。昔から「梅にうぐいす」といわれるように、梅とうぐいすは切り離せない存在。 ・町の魚:いわし いわしは、南部漁協で最も水揚げが多く、みなべの夏の風物詩でもある漁り火漁で獲れる。カルシウムやビタミンDを豊富に含み栄養満点の魚。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・みなべ町の気候 みなべ町の気候は紀伊水道に流れ込む黒潮の影響を受け、一年を通して気温の変化が少ない温暖な気候に恵まれている。 ...
みなべ町
みなべ町を走る みなべI.C〜奥みなべ梅林
みなべ町を走る みなべI.C〜島ノ瀬ダム
みなべ町を走る 千里観音へ
紀州備長炭ができるまで 備長炭の原木はウバメガシを釜の高さに切りそろえたもの。この択伐という作業で太い木は伐り、細い木は出来るだけ伐らずに残しておく。 ウバメガシの原木は曲がった木が多いため、釜に入れる前に木ごしらえをする。まっすぐにするために下の写真のように切れ目を入れたりくさびを打ち込んだりして一本ずつ職人の手で丁寧に形が整えられる。 bin-kireme.jpg いざ釜に木を入れるとなっても釜の中の温度がなるべく高いうちに木を入れたいので、「たてまた」という道具を使って木をくべていく。(木くべ)一度に釜に入れる原木の量は約4000キロにもなる。 そして釜の中で約2週間炭化させる。職人は匂いや煙の色で窯の中の状態を判断しながら、火を調節する。はじめは水分を含んだ白色の煙が多く、段々と青っぽい色に変わリ、また酸っぱい匂いになってきたら炭化の合図。 1000度にもなる最終の「精錬(ネラシ)」作業に入る。半日~1日かけて焚き口をゆっくりと時間をかけて開けていき、窯の中に空気を送り込んでいくことで一気に炭化が進む。そして木の色が赤から金色に変わったら「窯出し」という炭を釜から出す作業に移る。 窯から出した炭に素灰(土と灰)をかけて消火する。出来上がった際に表面が白くなるのは消火の際に素灰が付着するためで、色が白いほど品質の高い良い炭とされている。 最後に職人の厳しい選別により等級別に分けられる。 備長炭は最初に入れた木の重量の10分の1しか残らない。 備長炭の使い方 調理、燃料(火力)・浄水・炊飯・お風呂・消臭、調湿・インテリアオブジェ・園芸・虫除け(木酢液)・備長炭電池・ぬか床、黒にんにくの消臭
みなべ紀州備長炭
紀州梅の会…自治体、農業関連団体、梅干加工組合などで組織されている <目的> 紀州梅の消費拡大及び産地維持・発展のため紀州梅を広く消費者に認識させるため、関係機関が緊密な連絡を保ちながら、宣伝、消費助長の対策を講じている。 <活動内容> 青梅・梅干しの消費宣伝を図る 梅の日…1545年6月6日に京都「賀茂神社」の例祭において、時の天皇が梅を奉納したという故事にちなんで定められた。毎年梅の日には、上賀茂神社、下鴨神社、須賀神社、熊野本宮大社に梅を奉納し、収穫に感謝する神事が行われている。 <梅の日が定められた経緯> 役470年前、日本中に晴天が続き、作物が育たず、田植えもできず人々が困り果てていました。 神様のお告げにより、後奈良天皇が賀茂神社に詣で、梅を賀茂別雷神に奉納して祈ったところ、たちまち雷鳴と共に大雨が降り始め、五穀豊穣をもたらしました。 人々は、その天恵の雨を「梅雨」と呼び、梅に感謝するとともに、災いや疫病を除き、服を招く梅を梅法師と呼んで、贈り物にするようになったと言われています。 この話が宮中の日記「御湯殿の上の日記」に記されていたことから、紀州梅の会によって6月6日が「梅の日」と定められた。
紀州梅の会と梅の日
戦国時代の梅干 江戸時代に著された「雑兵物語」には、戦に明け暮れる武士は、食料袋に『梅干丸」を常に携帯していたと書かれている。梅干の果肉と米の粉、氷砂糖の粉末を練ったもので、激しい戦闘や長い行軍での息切れを調えたり、生水を飲んだときの殺菌用にと多いに役立った。また、梅千のスッバさを思い、ロにたまるツバで喉の渇きを施したそうである。 鎌倉時代の梅干 武家社会のもてなしは「椀飯」と呼ばれ、クラゲ・打ちアワビなどに、梅干や酢・塩が添えられたご馳走だった。兵士の出陣や凱旋の時に縁起がいい食物として、また、禅宗の僧は茶菓子として、梅干を用いた。※「椀飯ぶるまい」はここからできた言葉である。 明治時代の伝染病 明治1年、和歌山でコレラが発生し、翌年にかけ1768人の死者が出た。この時、梅干の殺菌力が見直され需要が急増する。また日清戦争の頃、軍医の築田多吉が、外地で伝染病にかかった兵士に梅肉エキスを与えて完治させ、梅干の薬効を実践した。 紀州の梅干 江戸庶民の梅干を食べる習慣が、全国に広がるにつれ、梅干の需要はますます多くなった。特に、紀州の梅干は「田辺印」として評判を呼び、田辺・南部周辺の梅が梅詰めされ、江戸に向け、田辺港から盛んに出荷された。
紀州うめぼしの歴史