稲葉 正則(いなば まさのり、1623年 - 没年不詳)、稲葉美濃守(いなばみののかみ)は、江戸時代前期の小田原藩主。 寛永11年(1634)、父・稲葉正勝の死去により、12歳で小田原藩主となる(7)。 寛永12年(1635)に、亡(父)母の追福のため、小田原城下・山角町(南町)の北に紹太寺を建立。寛文9年(1669)に入生田に寺地を移させ、仏閣を再建。鉄牛を招請して中興開山とした。(1) 寛永年間(1624-1644)に「名主割元役」の役職を廃止したことに伴い、寛永19年(1642)に網一色村(東町)の名主・剣持四郎右衛門に、それまでの功労をねぎらって免田1段9畝11歩(約1,921m2)を下賜した(4)。 慶安2年(1649)に、扇町の足下地蔵尊の本尊の地蔵菩薩像が霊験あらたかだと聞いて、別に一体を彫刻させ、その腹籠にしたといわれている(3)。 早川や栢山も領知しており、天和2年(1682)7月に、栢山・善栄寺に対して、今まで通り、境内(20石1斗1升9合)を寄附する旨の証状を与え(2)、早川・海蔵寺の境内(14石1斗9升)を除地としている(5)。 『風土記稿』に、元禄9年(1696)9月6日に死去し、家譜にも、同日死去し、翌7日に(東京都墨田区向島の)牛頭山弘福寺に葬られ、遺骸が紹太寺に送納されたことがみえるが(1)、紹太寺の稲葉氏の墓所の墓碑銘によると、同日は子・正通による建碑の日付で(6)、死去は他日と考えられる。法名は「潮信院泰応元如」(1)。 参考資料 『風土記稿』入生田村 紹太寺 『風土記稿』栢山村 善栄寺 『風土記稿』井細田村 地蔵堂 ...